第二の脅威 上杉謙信との戦い
画像:©2013「信長の野望 創造」(コーエーテクモゲームス)
信玄の死を知った信長は、この機会に乗じて窮地から這い上がろうとする。しかし、まだ危機は去っていなかった。今度は、長尾景虎(のちに上杉謙信と名を改めている)が攻めてきたからだ。
実は、信長と謙信は同盟を結んでいた。しかし、信玄が亡きあと同盟は解消され、信長の脅威となる。謙信といえば信玄と互角の武将。新潟の龍(虎とも呼ばれ)各地の武将から恐れられていた勇猛果敢な男。
謙信と信玄が合戦を繰り広げた川中島の戦いは計5回も行われ、それでも決着がついていない。そんな相手が敵になるのだから、信長にとっては信玄のときと同じくらいピンチ。
しかも上杉家には命知らずの武将が揃っており、滝川一益や直江兼続もその一人だ。しかし、逃げるわけにもいかない信長。腹をくくり謙信との戦いを決意し、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴(豊臣)秀吉など血気盛んな家臣を引き連れ対抗した。
のだが・・・、あっけなく敗北。これでもか、というくらいボコボコにされ命からがら岐阜へと帰る。謙信は逃げる信長を追わず、新潟へと軍を引き戻した。
この報告を受けた義昭は信長の排除が現実的になったことを確信し、どんちゃん騒ぎ状態。が、しかし、ハッピーで笑いが止まらない義昭のもとへ悲報が届く。
謙信が脳梗塞(脳溢血という説もある)で死んだ、という知らせだった。信玄に続き謙信も病死。もはや天運としか言いようがない。とはいえ、”運も実力のうち”という言葉もある。
信長は「天が私を選んだのだ」と勢いを取り戻し、休む間もなく合戦に明け暮れる。その第一歩として、真っ先に信長が怒りを向けたのは当然ながら義昭である。
あの野郎のせいでマジで死ぬところだった・・・と信長の怒りは爆発寸前。軍を率いて京都へと出向き、義昭は二条城に立てこもって織田軍に交戦するが勝てるはずもなく、敗北。
敗れた義昭は大阪へと逃げ、その後、広島の毛利輝元を頼って吉田郡山城で暮らし、本能寺の変で信長が死ぬと、豊臣秀吉の側近となって1万石を授けられ京都の南部で暮らした。
義昭を追放した信長は朝倉義景を攻め(一乗谷の戦い)、福井を獲得。小谷城の戦いで浅井長政に勝利し、滋賀を獲得。信玄の死後、山梨の武田勝頼を攻め、圧勝(長篠の戦い)。
1567年には滋賀に安土城を建設し、居城とする。いよいよ天下統一が実現しようとしていた47歳の夏、1582年6月21日に本能寺の変で死去するのであった。
天運に助けられ何度も命拾いした信長だったが、あっけなく本能寺で命を落とすなど誰が予想しただろう。しかも、もっとも信頼していた家臣、明智光秀によって殺されるなどと。
義昭と信長の因果を物語る”黒幕”説
画像:©2013「信長の野望 創造」(コーエーテクモゲームス)
信長は天下統一を目前にして本能寺で47年の生涯に幕を閉じるが、本能寺の変にまつわる興味深い説が浮上しているのをご存知だろうか。
本能寺の変は戦国史もっとも謎に包まれたミステリー。信長の遺体が見つかっていないことや、なぜ光秀が信長を裏切ったのか、など数多くの謎が解明されていないままだ。
そして、本能寺の変は、光秀を影で操っていた”黒幕がいるのでは?”という説を唱える専門家もいる。義昭も黒幕として疑われている一人。
信玄が病死し、信長にとって脅威となったのは毛利輝元が治める中国地方だった。信長は秀吉を中国地方へ侵略させ、毛利家を織田家の配下につかせるように命じている。
輝元は織田家への服従を拒否し、豊臣軍に交戦していたが、いよいよ侵略が本格化すると危機が迫っていた。そこで輝元は毛利家に仕えていた僧侶・安国寺恵瓊に相談し、信長の暗殺を企てる。
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