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「信長包囲網」を知らずして戦国時代は語れない!織田信長と足利義昭の”因縁”を振り返る


画像:©2017映画「関ヶ原」製作委員会

当時、輝元は、信長に負けて逃げてきた義昭を毛利家に住まわせ世話しており、将軍家と関わりのある光秀を説得し、交渉術に秀でていた安国寺恵瓊が光秀をそそのかしたのでは、という説もある。

※光秀は過去に朝倉義景の家臣であり、将軍とのつながりがある

同時に恵瓊は秀吉にも交渉し、「信長が亡きあと天下をとればいい。そうすれば毛利家は豊臣家の家臣として働く」という条件のもと、光秀が本能寺に向かっても信長の暗殺に目をつぶるよう説得。

しかし、恵瓊は頭がきれ、策士であり、用意周到な人物である。秀吉に”光秀の口封じ”を頼み、その代わり、中国大返しを全面的にサポートしたのではないかと推測できる。

あらかじめ秀吉が信長の暗殺を知っており、なおかつ毛利家や恵瓊のサポートがあったとすれば、わずかな期間で高知~京都までを移動し、直ぐに光秀を討てたのも話の導線がつながる。

つまり、中国大返しや山崎の戦いとった秀吉の神がかり的な行動は”出来レース”だったわけだ。そして、毛利家には義昭が居住しており、輝元や恵瓊と策略を練っていたとしても不思議なことではない。

事実、秀吉は清須会議で強い立場を確立すると、順調に全国の武将や大名を配下につけ、天下をとった。秀吉が天下をとると、すんなり毛利氏は豊臣家の家臣になっている。

毛利家や恵瓊は他の家臣よりも優遇を受けており、五大老の一人として丁寧に扱われていたとのこと。また、安国寺恵瓊は、こんな興味深い手紙を残している。

信長の時代は5年か3年か、そんな話だ。1年後には公家になるくらい出世するかもしれないが、そのうち、状況は一変するだろう。羽柴秀吉という男は優れた人物であり、この男が気になる。

といったような内容で、驚くことに、この手紙が書かれたのは1573年。本能寺の変が起こる9年前であり、未来を予言していたかのような文面である。

しかし、信長が死去したあと足利将軍の時代がくることなく、秀吉が天下をとった。秀吉が信長のような”よからぬ考え”をもたぬように、あえて公家しか許されない「関白」という地位を義昭は与えたのではないか。

天皇家と関りをもたせることで秀吉を監視下に置き、よからぬ考えや行動を起こさないように関白の地位を与えという推測もできる。あくまでも、推測の範囲を出てはいないが興味深い推測だ。

関白という地位は天皇を補佐し、政治をサポートする重役である。現代の政治の世界で言えば、内閣総理大臣を支える官房長官や国務大臣のような立場。いかに重職であったかがわかる。

※公家・・・天皇家に仕える貴族や上級武家。その中でも位の高い五摂家という公家として天皇家に認められていたのが近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊らである。

また、近年、光秀の直筆の手紙が発見され、手紙には足利義昭を京都に迎え入れることについて書かれており、光秀は室町幕府の再興を願っていたのではないかというもの。


画像:6月12日付 土橋重治宛て光秀書状(美濃加茂市ミュージアム)

光秀は過去に朝倉義景に仕えていた経歴があり、朝倉家は足利家と深いつながりがあり、光秀も将軍家に特別な親しい感情を抱いていたとしてもおかしくない。

信長に仕える前から義昭の連絡役として各国を行き来していたことは明らかにされており、光秀の盟友・細川藤孝が天皇家に仕えていたという裏付けもあって、信長の家来になってからも義昭と深いつながりをもっていたのではないかという見解。

室町幕府を再び盛り上げるためには信長が天下統一を果たす前に消さなければ・・・、その動機が本能寺の変の”引き金”になったのではないだろうか。

また、幾つかの文献によると、光秀は天皇家に仕えていた土岐氏(土岐一族)であったとも考えられており、信長に気づかれぬよう将軍家の復活=室町幕府の再興に尽力していたのかもしれない。

何はともあれ、これらに明確な根拠はないが、光秀の直筆の手紙が見つかったのは歴史的な出来事である。光秀の生涯は謎が多かったし、直筆の原本は貴重な資料となる。

この手紙は本能寺の変から10日後に信長と敵対する土橋重治へ宛てて出されていることから、以前から反信長勢力とつながりをもっていて室町幕府の復活を願う者たちと親交を深めていたという推測もできる。

参考:織田信長の死に隠された10の説。戦国史もっともミステリアスな「本能寺の変」(前編)
参考:織田信長の死に隠された10の説。戦国史もっともミステリアスな「本能寺の変」(後編)
参考:本当に明智光秀の単独犯なのか?本能寺の変で起きた織田家滅亡の悲劇的なシナリオ

信長と義昭の深い因縁

さて今回は、信長包囲網を軸に信長と義昭の因縁についてご紹介したが、信長包囲網ならびに室町幕府の滅亡は戦国時代を代表する歴史的な出来事の一つである。

一度は手を組み味方になった両者。しかし、互いの欲が亀裂を生み、信長包囲網へと発展していく。あげくの果てには本能寺の変に義昭が関わっていたのではないか、という説まで浮上するくらい二人の因縁は深い。

信長に踊らされ権威が失墜した義昭。信長包囲網により何度も死にかけた信長。信玄や謙信など戦国の猛者たちとの出会いも、この信長包囲網がきっかけとなっている。

のちに天下をとった秀吉は金ヶ崎の戦いで、家康は三方ヶ原の戦いで死にかけている。この出来事の発端も信長包囲網。まさに、戦国時代を語るうえで欠かせない史実と言えるだろう。

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