権力で支配しようとは考えていなかった!本当の織田信長は「謙虚」で「合理的」な武将だった?
画像:大雲院「織田信長」の肖像(東京国立図書館)
一般的な織田信長の"人物像"といえば傲慢(ごうまん)で、残忍で、非道で、暴力的で冷酷な魔王や殺戮者といった怖いイメージが先行しがちですが、実際のところ、そうでもなかったみたいです。
というのも、近年の研究から今までとは違う信長の人物像が浮かび上がってきています。そこで今回のテーマは、教科書では教わらない本当の織田信長。実際は「どんな武将だったのか」、その人物像に迫ってみましょう。
信長にとって天下統一は「全国制覇」ではない
まず、信長の代名詞といえば「天下統一」の先駆け。この「天下」とは、これまでの解釈では「全国」を示すと思われてきましたが、近年の研究では「畿内(きない)」を指している可能性が高いと言われています。
畿内とは都(朝廷)に近い地域を言い、主に「山城国(京都)」「大和国(奈良)」「河内国(大阪東部)」「和泉国(大阪西部)」「摂津国(大阪北部)」5カ国を指します。
つまり、天下統一とは、この畿内5カ国を制覇するという意味。しばらくして四国の長宗我部や中国の毛利とも相対するようになりますが、当初の野望は、やはり都に近い畿内5カ国の制覇だったと思われます。
上杉謙信と同盟を交わしていますし、足利義昭が信長包囲網を発動するまでは武田信玄との争いも避けているところを考えれば、「みんな蹴散らして全国統一だ!」なんて雰囲気は感じ取れません。
両者とも信長包囲網の最中に病死しており、たまたま信長が生き残ったようなもの。もし二人が長生きしていれば、どうなっていたか分からないわけで、もちろん信長も二人が病死するとは思っていなかったから無駄な争いを避けていたのではないかと。
そのため、信長は"うつけ(馬鹿者)"ではなかったのです。岐阜で「天下布武」を掲げたとき、甲信越(山梨・長野・ 新潟県)や東北、関東まで領土を広げようと思っていたとは考え難いのではないでしょうか。
信長は室町幕府を滅ぼす気はなかった
画像:足利義昭(東京大学史料編纂)
1565年、室町幕府13代目の将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀に暗殺されると、弟の足利義昭は奈良に幽閉(無期懲役の監禁のようなもの)されてしまいますが、幕臣の細川藤孝や和田惟政らが義昭を救出。
その後、義昭は明智光秀の仲介により織田信長を頼って岐阜に逃れてきます。義昭の要望に応え信長は上洛戦(京都に出陣)を開始し、三好衆と久秀を京都から追放しました。
これにより義昭は京都に帰還し、室町幕府15代目の将軍に返り咲くわけです。信長の働きによって、無事、室町幕府が再興することになります。
では、なぜ信長が義昭に力を貸したのか、という点について、これまでの通説では「義昭を操り人形にして信長が実権を握る(政権を掌握する)ため」と言われていました。
しかし、ここ数年の研究では、信長と義昭は「良好なパートナー」として親しくしており、義昭が信長を「裏切った」ことで関係が次第に悪化し、もはや「修復できない仲」に陥って信長が義昭と「距離を置いた」という見解が有力になっているようです。
当初、信長は義昭のために二条新御所(旧・二条城)を建てるなど好意的な対応だったのですが、あからさまに義昭の行動が派手になり、見かねた信長が「権力の安売りは控えたほうがいい」と批判するようになりました。
この段階では義昭の立場を心配して注意を促すだけで、義昭を追放しようとは考えていなかったわけです。けれど、信長の意見に耳を貸そうとしない義昭は、信長に対して敵意をむき出しにしていくのです。
義昭は武田信玄や上杉謙信など各地の有力大名に「信長包囲網」を発動し、武力による信長の抹殺を実行に移しました。その結果、信長は各地の猛将から命を狙われることになり、絶体絶命のピンチに陥ります。
しかし、信玄が病死すると続くように謙信も病死し、信長包囲網は機能しなくなりました。好機とみた信長は義昭の討伐を決意し、京都へと出陣します。そして、ここでも義昭に対する信長の"配慮"がうかがえます。
討伐とはいえ、死に追いやるのではなく「追放」というかたちで室町幕府を終焉させたのですから。無論、義昭を殺さなかったのは世間の目も気にしてのことでしょうが、そうなると「無慈悲で冷酷な魔王」といった従来のイメージとは重ならないですよね。
つまり、信長から一方的に仕掛けたわけではなく、そもそも室町幕府の抹消など当初は考えていなかったことになります。これまでの「義昭を追放して室町幕府を終わらせた武将」という"信長の人物像"は不確かなのです。
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