えっ?小田原城攻めが最後じゃない?豊臣秀吉の天下統一を妨げた「九戸政実」とは?
画像:九戸政実プロジェクト突撃隊(岩手県県北広域振興局二戸地域振興センター)
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたのは「小田原征伐」「奥州仕置」が完了した時点・・・とされているが、実は、もう一つ”片づけ”なければならない出来事があった。
つまり、”その出来事”をもって、秀吉が天下統一を果たしたと言える。その出来事とは「九戸政実」の征伐。名前を聞いても、おそらくピンとこないのではないだろうか。
通説では、1587年に九州攻めで島津家を服従させ、1590年には関東の小田原城攻めで北条氏政を討伐し、当主の北条氏直を高野山へ追放。小田原征伐には”刃城の戦い”も含まれる。
そして、奥州仕置により諸大名や武家を服従させ、それ以降、秀吉の時代が始まった。この通説が間違っているとは言わないが、”九戸との戦い”を忘れてはいけないような気がするのだ。
南部家と九戸家の対立
九戸政実は安土桃山時代の戦国武将である。九戸家は奥州大名の南部氏に仕え、南部氏の24代目当主が南部晴政であるが、九戸政実を語るうえでこの人物がキーマンになる。
晴政は子宝に恵まれず跡取りの問題で悩んでいた。そこで、従兄弟の信直を養子に迎え入れる。実の息子のように育て、いつか跡取りにすると決めていた。こういった話は戦後時代では珍しくない話。
画像:南部晴政之像(もりおか歴史文化館)
信直を養子にしてから5年後が過ぎたある日、息子が生まれる。この子に「晴継」と名付けた。自分の血を受け継ぐ実子なのだから嬉しくないわけがない。
それを機に、信直に対する晴政の態度は一変する。これまで実の息子のように接してきたのに、あからさまに冷遇し、邪魔もの扱いした。挙句の果てには、信直の殺害を企てるまでに至る。
信直は「毘沙門堂」を崇拝していたため、毎朝の参拝が日課だった。そして、いつものように信直が寺に出向くと何やら不穏な気配。なんと、晴政が数名の兵を引き連れて殺しに来たのである。
数発の銃弾を放つと信直は落馬。護衛についていた九戸実親が手当てするも、実親も一緒に被弾してしまった。一命を取り止め、信直は養子の解消を申し出て跡継ぎの座から辞退。
しかし、それでも晴政は諦めず暗殺を企てていた。信直は南部家を出て田子城に身を隠し、刺客の脅威から逃れるために北信愛(のぶちか)の剣吉城や八戸政栄のもとを転々とした。
そんな矢先、晴政が病死。晴継が跡を継いで25代当主となるが、このとき13歳。晴政が病死し、その直後に春継も死去する。断定的な死因は判明しておらず、病死または暗殺という説がある。
家督を相続した直後と思われる13歳で疱瘡を病んで死んだ。父の葬儀を終わらせて三戸城に帰城する途上で、夜陰に乗じた暴漢に襲われて一命を落としたとも言われる。
この暴漢は、家督を狙っていた南部信直が指揮していた説と、南部家を我が物にしようと企んだ九戸政実が指揮していた説があり、いずれも暗殺の可能性が高い。 |
参考:南部晴継(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/南部晴継を埋め込み
お家騒動が勃発する
画像:南部信直 (中世武士選書35巻)
さて、そんなこんなんで晴政、晴継の死により、南部家では後継者を決めるための大評定が開かれる。
南長義や北信愛らは養子である信直を推薦したが、九戸実親(晴政の次女と結婚しているから)を後継者に推薦する声が多かった。だが、結果的には信直が南部家の跡を継ぎ、26代当主となった。
そうですか・・・と、すんなり引き下がらなかったのが実親の兄、九戸政実。
信直には晴継の暗殺容疑が浮上していたため、そんな”やから”が南部家を継ぐなどありえない、そう思っていたのだ。しかし、一説によると「晴継暗殺の犯人は政実」という説もあるので真意は定かではない。
いずれにしても信直と対立するということは、南部家を横取りしようと考えていたのは確かだろう。
それ以降、政実と実親は信直に対して横着な態度をとるようになる。あろうことか政実は「我こそが南部家の当主だ」と態度はエスカレートし、当主である信直をバカにしていたようだ。
1590年、信直は秀吉の小田原攻めに参陣し、その褒美として糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、遠野保の7ヵ郡を安堵され、奥州征伐では浅野長政と先鋒を務めた。
さらに、奥州仕置にて領主の配置換えや検地などが行われた際、九戸家は有力一族であっても南部信直の家臣にすぎないという立場を明確にさせられ、政実は怒りをあらわにして狂気的な行動に出る。
1591年に開かれた南部家の正月参賀を辞退し、つまり、これは南部家との対立を示す意思表示。ついに3月、政実と実親は5000の兵を集めて信直の討伐を決定する。
この記事へのコメントはありません。