信直、秀吉に救援を頼む
画像:近江木下家資料展「豊臣秀吉」の画(秀吉清正記念館)
政実は同盟関係の櫛引(くしびき)、久慈(くじ)、七戸家国、七戸慶道らに要請を出し、計5000の兵力にて合戦の準備をした。九戸軍VS南部軍の合戦が幕を開けるわけだ。
とはいえ、この合戦は政実が一方的に仕掛けた戦いで、あとになって信直は知る。政実が北信愛の次男・秀愛の一戸城に夜襲をかけ、これを知った北秀愛が信直に九戸の反乱を伝えた。
次いで九戸軍の櫛引清長は苫米地館を攻撃し、南部家の館や城を怒涛の勢いで次々に攻め、南部家は家臣の北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らで防戦する。
しかし、円子金五郎、長内庄兵衛、種市伝右衛門など精鋭が揃った九戸軍の攻めは激しく、信直は実子の利直と北信愛を大坂城に向かわせ、秀吉に救援を要請したのである。
こうなると、もはや九戸軍VS南部軍の合戦ではなくなってくる。救援に駆け付けた豊臣軍のメンバーは豪華な面々で、はたから見れば「九戸軍VS豊臣軍」の戦いとなっていた。
総大将に豊臣秀次を置き、副大将が徳川家康、北陸から上杉景勝と大谷吉継が参陣し、津軽には前田利家、前田利長を配置させ、相馬口では石田三成、佐竹義重が構え、宇都宮国綱が参陣した。
さらに、伊達政宗や最上義光、小野寺義道や戸沢光盛、秋田実季や津軽為信などを予備軍とし、奥州仕置を終えたばかりの蒲生氏郷や浅野長政、井伊直政も合流して、9月初旬に南部家へ集結した。
南部家の”お家争い”で集まったメンバーとは思えないほど豪華な面々であることがわかる。天下統一が実現しそうなとき、問題児は早く叩き潰しておきたいという秀吉の強い意志が伝わってくる。
ないがしろにしておけば、妨げになるかもしれないと考えただろう。女好きで楽観的な性格が目立つ秀吉だが、一方では”小さな誇り”も見逃さない徹底主義な一面ももっている。
その証拠に、九戸軍5000に対して、南部家の救援に駆け付けた豊臣軍は6万。これは憶測だが、秀吉から出陣を命じられた家臣たちは「俺らが行く必要ある?」「こんなに必要?」と思ったはず。
政実は8月23日に小鳥谷摂州と50名の兵を引き連れて美濃木沢で豊臣軍に奇襲をかける、反対にボコボコにされて9月1日には九戸領土の根反城が落とされ、もはや打つ手がない状態に追い込まれる。
秀吉の天下統一が完了する
画像:九戸城跡(岩手県二戸市)
追い込まれた政実らは九戸城に籠城し、豊臣軍を迎え撃つ。9月2日に豊臣軍6万が九戸城を包囲し、ここから九戸城の戦いが始まるのだが・・・・もう結果は察しがつくだろう。
豊臣軍の家臣たちは秀吉から九戸城の壊滅を命じられており、徹底的に城を包囲した。
まず、九戸城の正面には蒲生氏郷と堀尾吉晴が配置、猫淵川を挟んだ東には浅野長政と井伊直政。白鳥川を挟んだ北には南部信直と松前慶広、さらに弓隊が構えている。
馬淵川を挟んだ西には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭などを配置した。
政実は激しく抵抗したが、半数が討ち取られる。幸いにも九戸城は強固だったため、豊臣軍も侵入に手こずっていた。そこで浅野長政は薩天和尚(お坊さん)を九戸城に派遣して政実に降伏を促す。
薩天和尚は九戸家の墓所である鳳朝山長興寺の僧侶。九戸家とつながりの強い人物が説得すれば降伏すると考えたのだ。結果は見えている・・・もう無駄な血を流す必要はない・・・と和尚は説得。
弟の実親は猛反対したが、妻子や下級武士の命は助けるという約束で政実は降伏に応じた。しかし、城を開けた途端に豊臣軍が雪崩れ込み、城内の者は一人残らず皆殺し。
最後は城に火を放ち、捕えられた政実、実親、七戸家国らは三ノ迫に連行されて斬首となった。政実の首は家臣の佐藤外記が持ち帰り、九戸神社近くの山中に埋めたという説がある。
では、九戸家の血は途絶えたのか、というとそうではない。政実の実の弟・中野康実は豊臣軍の九戸城攻めで道案内した功績を称えられ、処罰の対象にはならず生き残っている。
その後、康実の子孫が盛岡藩・南部家の家老を務め、八戸氏、北氏と並び南部御三家の一人となっている。皮肉にも、一度は南部家に背いた九戸家が、また南部家の重役として返り咲いたというわけだ。
南部家のお家争いが発端で起きた信直と政実の戦いは「九戸の乱」「九戸城の戦い」として歴史に残っているが、実際のところは秀吉が救援に向かわせた豊臣軍と九戸軍の合戦である。
小田原城攻めが1890年、奥州仕置が終わったのが1591年の8月。そして、九戸城の戦いは1891年9月であることから、秀吉が天下統一を成し遂げた”最後の合戦”と言えるのではないだろうか。
もちろん、秀吉にとって眼中にない相手だっただろうが、規模に関係なく最後の合戦であったことは確かである。つまり、秀吉は「小田原城攻め」→「奥州仕置」→「九戸城の戦い」を経て天下統一となる。
この見解には賛否両論あるかもしれない。だが、九戸政実という男が秀吉に歯向かった”最後の武将”であることは間違いないだろう。歴史とは実に興味深い。ぜひ、覚えておいてほしい。
この記事へのコメントはありません。