こんなに多かったの?徳川幕府の役職を「ほぼ全て」組織図でご紹介します
徳川幕府は大規模な組織で、様々な役職に分けられていました。ちなみに、江戸時代は幕藩体制(地方分権)ですから、「幕府の役人」と「諸藩の役人」は完全に別物です。
よほどのことがない限り、幕府の役人が諸藩に転職したり藩の役人が幕府の役職に就くことは原則的になかったようです。
また、幕府の役人になれるのは譜代大名と徳川家の旗本・御家人に限られていました。今回は、徳川幕府には「どのような役職があったのか」を紹介したいと思います。
徳川幕府の役職
徳川幕府は徳川将軍=征夷大将軍を頂点に、
・大老
・老中
・若年寄
・京都所司代
・大坂城代
・側用人
・寺社奉行
・奏者番
・大年寄
これら幹部が最も順位の高い役職でした。
そして、その配下に様々な役職が連なるわけですが、ほとんどは老中と若年寄の配下が割合を占めており、大まかに7層まで役職の順位を分けることができます。
また、将軍に謁見できる役職は限られており、謁見が許される役職者を「御目見以上」と呼び、全体の役職数に対して約3分の1が御目見以上の役職だったようです。
御目見とは、本来の意味は下位の者が上位の者に会うことを言い、諸藩の役人で御目見以上の者は位が高い上級武士だったり、特別な許可を得た役職者でなければ将軍に会えないルールもありました。
全体の役職名を記載した組織図も下部に貼っておくので、ぜひ参考になれば幸いです。
外様大名は対象外だった?
幕府の役人は旗本と御家人、譜代大名の中から選任されたわけですが、外様大名が幕府の役人になることは可能だったのでしょうか。
答えは、「NO」です。外様大名は幕府の役人になれません。
徳川幕府は、徳川家の身内や幕府が成立する前から徳川家に絶対的な服従を誓っている大名(譜代大名)で構成されており、そうでない大名は必然的に外様大名となります。
わかりやすく言うと、関ヶ原の合戦で徳川家に敵対し、関ヶ原の合戦以降に徳川家の配下になった大名は外様大名です。
たとえば、豊臣家や織田家に仕えていた家臣らは、ほぼ外様大名。ずっと徳川の家臣だった者たちが譜代大名に位置付けされることになります。
江戸時代において外様大名らは諸藩の藩主だったわけで、そうした理由からも「幕府」と「諸藩」を隔離した幕藩体制という構図が成立しているんですね。
また、外様大名は遠方に配置され、幕政に参加させないという対策も講じています。つまり、信用できない人間は"幕府の人間ではない"ってこと。
譜代大名の条件は、
1 幕府が成立する前から徳川家に絶対的な服従を誓っている家臣
をクリアし、
2 なおかつ1万石以上の石高を所有している大名
が譜代大名として認められますが、1の条件をクリアしていても1万石未満の家臣は旗本・御家人に分類されます。
幕府の役人になれるのは譜代大名もしくは旗本・御家人に限定されていましたが、徳川家と親交が深かった外様大名や貢献度合いが高い外様大名が幕府の役人になれるケースもあったそうです。
旗本と御家人の差
1 幕府が成立する前から徳川家に絶対的な服従を誓っている家臣
2 1万石未満の石高
この条件に当てはまる家臣は旗本・御家人に分類されるわけですが、さらに、御目見以上が旗本、御目見以下が御家人となります。
譜代大名は軍隊で例えるなら司令官クラスに相当し、通常時はキャリア=官僚という位置づけ。
対して旗本は将校や仕官クラスといったところ。通常時は幕府の仕事に励む国家公務員で、有力な旗本は町奉行や勘定奉行の役人に抜擢されることもあり、御家人より格段に扱いが良かったようです。
御家人は、下士官や将軍の身辺を警護する親衛隊という感じ。通常時は旗本と同様に幕府の仕事に励む国家公務員ですが、雑務や日々の仕事が主で幕政に関わることはできませんでした。
しかし、幕府が成立した頃は家柄や石高が重要視されていましたが、学問の発展により能力主義に移行してくると、採用試験の成績によって旗本と同等クラスの役職に就く御家人もいたそうです。
幕府の採用試験については下記の記事を参考にしてください。
参考:徳川幕府には採用試験があった!役人になるための必修科目とは?
また、旗本八万と称される徳川幕府の軍事力は旗本と御家人の兵3万人と、その配下の5万人で構成されており、完全に外様大名へ向けた威圧ですね。
余計なことをしても無駄だぞ・・・と。
とにかく徳川幕府は外様大名に目を配っていたわけですよ。参勤交代に関しても、経済的にも精神的にも外様大名を痛めつけていますしね・・・。
徳川幕府における最大の出世コース
※出典元は画像に記載
徳川幕府の中で重職(将軍を省いて)とされるのは大老ですが、この職は非常時に将軍の補佐を務める臨時職なので実質的には老中が最も位の高い役職であったことが分かります。
次に若年寄、京都所司代、大坂城代という順位。そして、その出発地点になる役職が寺社奉行です。
寺社奉行は、宗教に関する行政を取り締まる機関で、寺社の領地や建物、僧侶や神官などの最高責任者。異教や攘夷が色濃かった時代において、寺社奉行は重要な役職でした。
寺社奉行を経て大坂城代に昇格し、京都所司代になれれば若年寄。さらに上にいけば老中という最高職が待っているんですね。
歴代の老中は、
秀忠の代・・・10人が就任
家光の代・・・11人が就任
家綱の代・・・10人が就任
綱吉の代・・・10人が就任
家宣の代・・・1人が就任
家次の代・・・3人が就任
吉宗の代・・・14人が就任
家重の代・・・7人が就任
家治の代・・・10人が就任
家斉の代・・・32人が就任
家慶の代・・・14人が就任
家定の代・・・1人が就任
家茂の代・・・15人が就任
慶喜の代・・・8人が就任
徳川幕府の歴代の老中は計146人。同時期に2~4人の老中が在職するケースが多く、一度、退任した人物がもう一度老中に就任することもありました。
また、大老(非常時に設置される)へ抜擢される人物は老中から選任されたようです。