天下普請における秀頼への配慮
画像:豊臣秀頼の肖像(養源院)
そして、ほかにも家康が豊臣家に対して友好的に接していたことが垣間見える出来事が「天下普請」です。
1603年に家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くと、翌年には各地の大名に国絵図と郷帳の作成を命じ、全国の領土を幕府が管理する意思を示しました。
それまでは各地域の大名が所領を独自で管理していましたが、これを家康が一括して把握することになり、幕府を主体とした経済システムを確立すると同時に、国内の情勢を把握する目的もあったと言われています。
※国絵図・・・国単位の絵図。国を区切り、各国の領土を細かく区切った地図
※郷帳・・・国名・村名・村の収益を記した帳簿。田畑の状態や山林など詳細に記録した土地台帳
さらに、東海道や中山道などの主要街道を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎の中心都市や港を幕府の所領と定め、石見・但馬・佐渡・伊豆の金山や銀山も幕府の直轄地としました。
各大名の所有ではなく幕府の管轄にすることで、好き勝手やっていた戦国時代に逆戻りしてしまうのを防ぎたかったのでしょう。合理的かつ支配力のある策だったと言えます。
そして同年には、天下普請が行われます。これは大規模な土木工事や公共事業のようなもので、各地の大名に城や寺社の改築、河川や道路の整備を命じ、
一説によると、改修によって大名らの資金を減らすことも目的(資金力あると変な動きする可能性あるからね)とされていますが、やはり、一番の目的は幕府への忠誠心を確かめるための命令だったのでしょう。
という点で、大名らが家康に従って各地で土木工事に励んでいるなか、秀頼は天下普請に参加していません。なぜかといえば、家康と同じ立ち位置で「差配(指示)する立場」として参加していたからです。
たとえば江戸城の普請(改修)では、家康は秀頼の同意を得てから着工し、あくまで大名として扱うのではなく、それら大名とは違う格上の存在として接していたことがわかります。
秀頼は息子(秀忠)の娘(千姫)と結婚した相手であり、身内も同然。家康なりの配慮だったわけです。この段階まで友好的に接していたことが分かるのですが、ついに、その気持ちが変化するときがやってきます。
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