方広寺鐘銘事件
画像:方広寺「国家安康」の釣鐘
1614年5月24日、秀頼は方広寺を改修した際に大仏殿の釣鐘(梵鐘)に「国家安康」の文字を刻印しました。
同年8月、方広寺(京都市)で大仏開眼供養会が決定すると、家康の参謀的な人物の南光坊天海(天台宗の僧侶)は、その供養会で天台宗の僧侶を左班(上位の者が座る席)に配置するよう秀頼に申し入れました。
秀頼は天海の要求を承諾。8月26日、家康は方広寺の釣鐘が不快かつ縁起が悪いと激怒。「家」と「康」が切り離されており、間に「国」と「安」が入っていることから「家康がいなくなれば国が安泰」という意味であると腹を立てたのです。
「駿府記」によると、方広寺の上棟(建物を造る前に安全祈願する儀式)の日が"吉日"でないことにも腹を立てていたらしく、供養会と棟上げの日程を延期するように要求し、秀頼に対してかなり不満を抱いていたようです。
ちなみに、供養会の延期については、済宗の僧侶で家康が信頼していた金地院崇伝が2日間に分けるべきと主張したことが理由です。
8月31日、秀頼は誤解を解くために片桐且元(秀頼と家康どちらにも協力的だった武将)を使者として駿府城に出向かせましたが、家康は且元と会いませんでした。
代わりに本多正純と金地院崇伝(以心崇伝)が対応しましたが、具体的な話し合いは行われずに「秀頼が幕府に対して反逆の意思がないことを示す誓約書を提出しなさい」と且元に伝えただけでした。
さらに、10月21日、方広寺鐘銘事件の罰として家康は且元を通して次の要求を秀頼に伝えます。
- 駿府と江戸への参勤(定期的に顔を出して幕府の仕事に参加しなさい)
- 淀殿(秀頼の母)は江戸城で滞在しなさい(つまり人質)
- 大坂城を出て、別の地域で暮らしなさい
豊臣勢は「いよいよ家康が喧嘩を売ってきた」と構えるわけですが、家康は事前に淀殿の使者・大蔵卿局(大野定長の妻)へ「豊臣家に逆新がないことは分かっている」と淀殿に伝えてくれと伝言しています。
いずれか一つを承諾すればOKだったのですが、秀頼は全力で拒否。
とりあえず「いい加減、何か一つくらい言うことを聞けよ」という親交の意味を深める意味での打診だったのかもしれません。しかし、一方の豊臣勢は「家康が攻めてくるぞ」と今にも戦闘準備に入ろうとしている様子。
こうなってしまうと、もう収拾がつかなくなるわけです。
大坂の陣が起きた理由
画像:黒田屏風「大坂夏の陣図屏風」合戦風景(大阪城天守閣)
こうして経緯を辿っていくと、「豊臣家を滅ぼそうと考えて大坂の陣を画策した」という通説には疑問が生じてくるんです。
初めは親交を深めようと秀頼と好意的に接し、やがて豊臣家と徳川幕府の共存に無理があると悟った家康は「豊臣家も大名の一つとして扱おう」と考えが変わっていきました。
重要な場面で策略的な行動をとり、二条城の会見では立場を明確にしようと意図的に動いているのも確かです。ほかの大名と同じように扱う"口実"が欲しかった、ということでしょう。
そして、方広寺鐘銘事件で家康は決定打を与えることに。
片桐且元を通して豊臣家に"罰"を突き付け、これを拒否した時点で豊臣という家柄は関係なく「大名の一つが徳川幕府に逆らった」という事実のもと、公式に罰を与えなければ"示し"がつかなくなります。
むしろ、家康は最後までチャンスを与えたようにもとれるんでよね。1614年11月3日、ついに家康は挙兵して討伐軍20万を従えて大阪へと進軍。翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びました。
史実を辿りながら出来事を振り返ると、一般的に言われている通説とは違った人物像が見えてくるものです。だから、歴史って奥が深く、いつの時代でも語り継がれるのかもしれませんね。
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