太田牛一とは?
画像:太田牛一のイメージ(©NHK歴史秘話ヒストリア)
1527年に愛知県春日井市で生まれた牛一。信長公記の著者であることから信長の祐筆(手紙や書状を代筆する役目)と思われていましたが、実際は戦闘要員の武将で"弓"の使い手であることが分かっています。
牛一は織田家に仕える前は尾張守護・斯波義統に仕え、織田信友によって義統が討たれると、義統の息子・義銀に仕えます。ちなみに、信長と信友は敵対する仲。
やがて義統の弔い合戦とも言える「安食の戦い」が勃発すると、信長は義銀を擁護し、この戦いで信長の目に留まったのが牛一でした。合戦での弓働きを見た信長は、牛一を織田家の家臣として迎え入れました。
このとき、牛一の弓働きが凄かったらしく、のちに槍の名手3人と弓の名手3人から成る「六人衆」の一人として牛一の名が挙がっています。
また、1564年に信長が出陣した斎藤龍興(斎藤道三の孫)の討伐(堂洞城攻め)では、牛一は堂洞城の二の丸の門近くの屋根から弓を放って敵兵を翻弄するなど、またしても凄腕の弓働きで信長を驚かせたと言われています。
牛一は織田家に仕えていましたが、1570年頃からは織田家の家臣・丹羽長秀が直属の上司になったようです。やがて本能寺の変で信長が自害すると、引き続き、長秀の祐筆として仕えました。
そして、長秀が他界すると牛一は息子に家を継がせて加賀(石川県)の松任で隠居します。その後、自身がつけていた日記をもとに信長公記の作成に取り掛かったと言われています。
そうやって、のんびり晩年を過ごしたと思いきや、隠居中の牛一は豊臣秀吉から声がかかり、行政官の一人として豊臣家に仕えることになります。
豊臣政権において、寺社の政(まつりごと)や山城国(京都南部)の検地を担当し、さらに、山城国と近江国浅井(滋賀県長浜の一部と米原の一部)の代官(君主ないし領主に代わって任地の事務を仕切る者)を兼任。
秀吉の死後は秀頼に仕え、秀吉の一代記「大かうさまくんきのうち」も執筆しています。
ほかにも関ケ原の戦いを中心とした家康に関する記録「関ヶ原御合戦双紙」なども作成しており、牛一は、信長だけではなく秀吉や家康といった天下人の史料を作った貴重な人物でもあるんですね。
牛一は大坂冬の陣が勃発する1年前(1613年)に他界し、当時としては長寿と言える86歳まで長生きしました。信長の7つ年上なので、もし信長が生きていれば79歳。
歴史に"もし"は無いと言いますが、もし本能寺の変が起きていなければ秀吉の時代も徳川幕府の誕生も、どうなっていたのか・・・。歴史とは、実に感慨深いものです。
信長公記が秀逸と言われる理由
画像:信長公記・現代語訳(角川書店)
信長公記は歴史上で初めて作成された信長の一代記で、出来事ごとに年・月・日が正確に記されており、また、内容の記述が客観的かつ忠実であることから信長に関する史料の中で最も信頼性が高い文献として扱われています。
信長公記が作成されたのは牛一が長秀に仕えていた頃から秀吉の家臣だった頃と考えられ、長年、牛一がメモ代わりに記してきた膨大な量の日記を基に、晩年に信長公記として全16冊にまとめました。
足利義昭の上洛から本能寺の変までを1年ごとに1冊ずつにまとめ、計15年の信長に関する史実が記されています。幼少期から義昭の上洛前までは1冊にまとめられており、全部で16冊。
そのため、時代に応じて信長や家康に対する呼び方・表現が変化しているのも特徴です。
たとえば信長なら、上様と書いていたり信長公と書いていたり、あるときは信長と呼び捨てで記述しているページもあって、いろいろな時期の日記を切り貼りしながら信長公記が作成されていることがリアルに感じ取れます。
また、家康に対する呼び方は、後編になるほど家康卿や家康殿と敬称をつけて記しているため、そうした細かな表現の変化でも出世していく過程や時代の流れが伝わってくるんです。
細かく記された内容や状況の描写などから、牛一は相当なメモ"マニア"だった可能性があると言われており、優れた文筆であることから信長の祐筆(手紙や書状を代筆する役目)と思われていましたが、研究が進むにつれ、信長の時代には弓の名手として活躍した武将であることが分かっています。
のちに長秀の祐筆となり、秀吉からスカウトされた以降は豊臣政権で行政官や代官を務め、並行して秀吉や家康に関する史料を作成していたとのことで、かなり有能な人物であったことが分かりますね。
戦国時代といえば知将や猛将など第一線で活躍した武将が目立ちがちですが、時代を記録した偉人たちに目を向けるのも歴史を知るうえでは大切なポイントではないでしょうか。
牛一のような"時代の記録者"がいたからこそ現代でも当時の様子を知れるわけで、日本史を後世に残すうえでも信長公記は非常に貴重な史料と言えるでしょう。
この記事へのコメントはありません。