宇佐美駿河守(宇佐美定満)
画像:上越地域振興局
「宿命のライバル武田信玄」
武田信玄との戦は、北信濃の武将が信玄に領地を奪われ、お館様に助けを求めてきたことがきっかけじゃった。155年から11年間にわたり5回の戦をしたのじゃ。
お館様は、利益は求めず「困っている人がいれば助ける」という思いで信玄と戦ったのじゃ。それがお館様の「義」の戦。だが、信玄も強かったのじゃな。
柿崎和泉守(柿崎景家)
画像:上越地域振興局
「川中島の戦い~武田軍の秘策」
武田信玄との最大の戦は、1561年の 4回目の「川中島の戦い」じゃ。10日余り、両軍とも対陣し動かなかったが、いよいよ武田軍は上杉軍を攻撃することを決めたのじゃ。
キツツキが木を叩き、虫が出たところを捕まえることからヒントを得た「キツツキ戦法」、これを考えたのは武田軍の軍師・ 山本勘助じゃ。手強い奴じゃ。いよいよ決戦開始、お館様が危ない。
甘粕近江守(甘粕景持)
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「川中島の戦い~上杉軍の秘策」
だが、お館様は、このキツツキ戦法 を見破って背後から攻めてくる武田軍の別働隊よりも早く山を下り、一挙に武田信玄の本隊を全滅させる作戦を考えたのじゃ。
「鞭声粛々夜河を渡る」
ひっそりと鞭の音もしないようにして、夜のうちに川を渡ったのじゃ。その時、川中島は霧につつまれていたのじゃ。霧が晴れた時、目の前に突如、上杉軍が現れたのを見て、信玄はきっと度肝を抜かれたことじゃろう。
こうして戦国時代の最大の激戦の火ぶたがきって落とされたのじゃ。
直江入道(直江景綱)
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「川中島の戦い~勝敗は?」
上杉軍の陣形は、「車懸かりの陣」。車輪のように陣を回転させながら、一陣、二陣、三陣と入れ替わり、新手を繰り出す戦法じゃ。虚を突かれた武田軍は「鶴翼の陣」で応戦。
鶴が翼を広げたような陣形で、左右に長く、敵を中に引き入れて取り囲み、攻撃する戦法じゃ。お館様は、一挙に信玄の本隊を全滅させたかったのじゃが、武田軍も手強く崩しきれなかった。
のちに山を下ってきた武田軍の別働隊により戦況は変わってしまい、お館様は、これ以上、戦をすることは不利とみて、善光寺に引き上げたのじゃ。 あと少しというところだったのに悔しいのう。
本庄弥五郎(本庄繁長)
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「義の塩」
1568年、信玄が北条氏・今川氏との三国同盟を破って駿河に侵攻すると、今川氏は北条氏と手を組み、報復措置として信玄の領国へ塩を送ることを全面的に禁止したのじゃ。
今でいう経済封鎖政策じゃな。海のない信玄の領国は大混乱になったんじゃ。お館様はこれをお聞きになり、「信玄と争うところは戦にあり、米塩にあらず」とおっしゃり、今までどおり信玄の領国に塩を送ったのじゃな。
信玄の領民は、深くお館様に感謝したのじゃ。さすがは我らのお館様じゃ。
高梨源五郎(高梨政頼)
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「ライバルが語る謙信」
最大の宿敵である武田信玄は、死にのぞんで「謙信と戦をしてはならぬ。謙信は頼まれれば嫌とはいわぬ男だ。わしが死んだら頼れるのは謙信だけだ。」と嫡子(長男)の勝頼に遺言したそうじゃ。
北条氏康も「信玄と信長は言動が裏腹で頼むにたらない。ひとり謙信だけは、うけおったら骨になるまで義理を通す。私が明日にも死んだら、あとを頼めるのは謙信だけだ」と語ったそうじゃ。
お館様の「義」の心は、宿敵達の心も動かしたのじゃ。やっぱりすごいのう。
飯盛摂津守(実在は不明)
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「謙信、亡くなる」
「49年一睡夢一期栄華 一盃酒」=「49年の私の人生は振り返れば一夜の夢の様だった。この世の栄華は一杯の酒と同じようなものだ」。これは、お館様の辞世の詩じゃ。
この詩を読んでから1ヶ月後に突如かわやで倒れ、意識が戻らないまま、1578年3月13日に亡くなられたのじゃ。突然の死に皆が大慌てになったのじゃが、お館様は自分の死期を感じておられたのかもしれないの。
毛利上総介(安田能元)
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「謙信の魂」
お館様の「義の心」は今も上越地域の住民の心に生きておる。私心のない「戦国時代最強の武将」。
春日山城はお館様が生まれ育ち、70 余回の戦に出陣し、瞑想し亡くなるまで暮らした城。「上杉謙信公の魂」に会える場所、 まさに「聖地」じゃ。皆の衆、お館様のお膝元に参られよ、何か感じとれるかもしれないの。
では、いずれまた会おうぞ。
画像:上杉謙信(上越地域振興局)
画像:上杉謙信公と越後十七将(上越地域振興局)
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