嘘か真か、戦国時代の"おもしろ"珍雑学<part2>
画像:山県昌景の長柄隊(JAPANミニチュアフォーラム)
前回に引き続き、今回も嘘か真か「戦国時代の珍雑学」を紹介したいと思います。
前回の記事は、こちら↓
嘘か真か、戦国時代の"おもしろ"珍雑学<part1>
文中に「~らしい」や「一説によると~」など確証を得ない表現が多々ありますが、あくまでもテーマは「嘘か真か」なので箸休め程度にお読みくださいね。それでは、ざっくり見ていきましょう。
最年長で子を授かったのは誰?
画像:金森長近の肖像(龍源院-東京大学史料編纂)
養子縁組が盛んだった戦国時代。なぜ養子が必要だったかというと、「もしも」に備えて跡継ぎ候補をストックしておくため。後継ぎがいなければ自分の代で家督が終わってしまいますからね。
お家存続のために子孫を残さないといけないのは今も昔も同じなのです。ゆえに、養子だけではなく「子作り」に励んでいたのも事実。たとえば秀吉は"いくら頑張っても"なかなか子宝に恵まれない武将として有名ですよね。
では、もっとも高齢で子を授かった(嫁さんが妊娠した、子作りに成功した)武将は誰だったのでしょう。
徳川家康や北条早雲は60代で子を授かっていますが、そんなの霞んで見えるほどの武将がいるんです。
その名は、金森長近。信長の「長」の一文字を賜って改名したことで知られていますね。信長、秀吉、家康に仕え、天下人を代々、支えてきた武将の一人です。
そんな彼が子を授かったのは82歳のとき。二男の長光です。また、関ケ原の合戦にも参戦しており、このときも最年長は長近だったんです。つまり、年をとっても現役バリバリだったわけですよ。
最年長で出陣したのは誰?
画像:龍造寺家兼(©2017鬼武Soul-カプコン)
82歳で関ケ原の合戦に参戦した金森長近でしたが、戦国時代には長近を超える"強者"がいました。
その名は、肥前の武将・龍造寺家兼です。龍造寺隆信の曽祖父にあたる人。家兼が最後に出陣したのは92歳。1545年、九州北部を支配していた少弐氏の家臣・馬場頼周との戦いでした。
はじめは仲が良かった二人ですが、頼周が家兼をハメて龍造寺家を筑後柳河に追放してしまうのです。龍造寺家の領地は馬場家のものになってしまい、この瞬間、家兼にとって頼周は「くそやろー」の「ばかやろう」で敵となりました。
そして、92歳で出陣した家兼は頼周を討ち取り、奪われた領地を取り戻し、龍造寺氏を復活させました。翌年、家兼は亡くなりますが、目的を果たしたからなのか、無念が晴れたからなのか、安心してあの世に旅だったのでしょうね。
もっとも長生きした武将は?
画像:北条五代PRキャラクター「北条幻庵」(©小田原市観光課)
50歳を超えれば長生きと言われた戦国時代、そんななか、もっとも長く武将は誰だったのでしょう。
まず一人目は、北条早雲の息子(四男)・北条幻庵(北条長綱)。97歳まで生き、武将というよりも塩を生成したり歌を詠んだり文化人の一面が目立つ人物です。1589年、小田原城攻めの1年前に亡くなりました。
次は、南光坊天海。徳川家康の参謀として江戸幕府では要職に就いていた人。ちなみに、家康の東照大権現(天皇から贈られる神号)という呼称を決めたのも天海と言われています。
なんと彼は107歳まで生きたそうで、もちろん異例の最年長。現代でも100歳を超えればミラクルなのに、戦国時代において107歳は奇跡としか言いようがありません。
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