画像:千利休像(長谷川 等伯)
前編では千利休が切腹に追いやられるまでの経緯と”徳川家康のスパイ説”について話をしたが、さらに後編では興味深い3つの説について考えてみたいと思う。
さて、千利休が伝説的な茶人(茶道のプロフェッショナル)であることは言うまでもないが、大名に引けを取らない財力と権威をもっていたことはご存知だろうか。単なる茶人ではなかったのである。
政治にも影響力をもち、利休の発言によって心変わりする大名も珍しくなかった。現代に例えるとアドバイザーであり、心理カウンセラーのような存在。知識や教養があり、人を魅了する品格が備わっていた。
利休の言葉は胸に響き、人の心を動かす不思議なオーラを身にまとっていたという。そのため、利休と親交のある大名や武家も多かった。事実、秀吉も信長の家来だった頃は利休に悩みごとを相談していた。
また、利休は弟子以外に大名や武家にも茶道を教えていた。悩みや相談を受けることも多々あり、いろんなところから様々な情報が入ってくるし、豊臣家の内情や秘密も握っていたと言われている。
利休は秀吉の”秘密”を握っていた
画像:原案 明智憲三郎・イラスト 藤堂裕(秋田書店)
秀吉が信長に仕えていたとき、利休のことを「お師匠」と呼んでいる。15歳ほど利休が年上だったので「父親のように慕います」と敬っていたそうで、頻繁に悩みごとや不安など打ち明けていた。
その関係は秀吉が天下をとってからも続く。秀吉の往年の悩みと言えば”跡取り”のこと。なかなか子宝に恵まれず、現代で言うところの不妊に悩まされていた。
しかし、秀吉が55歳のとき、第一子となる鶴松を愛人(側室)の淀殿が出産する。淀殿は23歳、不妊の原因は秀吉と思われていたことから、この出来事に疑問を感じる者たちもいたという。
つまり、”本当の父親は誰なのか・・・”そんな、よからぬ噂が囁かれていたわけだ。当然ながら利休も、淀殿の妊娠には驚いたはず。秀吉に真意をたずねたかもしれない。
秀吉は本妻(正室)のほかにも愛人が13人いた。正室の寧々と結婚してから28年間、寧々が出産したという記録はない。そして、淀殿が側室になったのは秀吉が54歳のとき。
淀殿は1588年に側室なって1589年に鶴松を産んでいるため、わずか1年で妊娠から出産までを行っている。たった1年で出産するなんて・・・と、周囲から不思議に思われても仕方ない。
愛人の一人である南殿が過去に二人の子供を出産したという話もあるが、どちらの子も生年不詳。いつ生まれたのか記録が残っていない。しかも、南殿の生年も分かっておらず、いろいろと謎が多い。
そのため、秀吉が授かった初の子供として鶴松が有力とされている。
●寧々(のちの高台院)・・・1561年、14歳のときに秀吉と結婚。生涯、出産した記録はない
●淀殿(改名前は茶々)・・・1588年、22歳のとき秀吉の側室となる。23歳で鶴松を出産
・なぜ28年も子供ができなかったのに、淀殿は1年で出産できたの?
・愛人が13人もいたのに、なぜ淀殿だけが妊娠できたの?
・そもそも不妊の原因は秀吉でしょ?
そうした不可解な疑問が重なっている鶴松の誕生。秀吉としては詮索しないでほしい話であるし、自分の子供であると信じたい。めでたい話を”濁った水”で濁されたくないわけだ。
それなのに、利休から「淀殿の妊娠ですが、どう思われますか?」なんて聞かれたら怒りたくもなるだろう。
利休は、もちろん淀殿にも茶をたてている。そして、茶室で相談も受けていた。密室で交わされる二人だけの話。妊娠の悩みや出産の経緯も利休に話していたのではないだろうか。
真実を知った利休は驚くが、秀吉に打ち明けなかった、だが、そのことに気づいた秀吉は利休が邪魔な存在になる。良からぬことが起きる前に、いっそのこと殺してしまおうか・・・と。
利休が命を絶ったのは1589年2月28日。その7ヶ月後(1589年9月22日)に鶴松は2歳で病死した。偶然かもしれないが、秀吉と利休に因果を感じてならない。
さらに、利休は秀吉の”秘密”を握っていたのだはないだろうか。それは、信長の死に関わる秘密。「本能寺の変の黒幕は秀吉だった」という決して知ってはならない恐ろしい秘密である。
秀吉が天下統一を成し遂げた過程には、いくつか不思議な点も多い。中国大返しや山崎の戦い、清須会議や毛利家との関係など、まるで誰かがシナリオを描いたような展開になっている。
<豊臣秀吉の陰謀説>
本能寺の変が起きて、わずか11日で200km以上の距離(中国地方から京都まで)を秀吉は大規模な軍を率いて移動し、大阪と奈良の境目にあたる京都府山崎町で光秀を討伐した。
これが、世に言う「「中国大返し」と「山崎の戦い」である。
この偉業は秀吉が天下取りに誰よりも近づく出来事となった。信長の仇と銘打って光秀を倒し、その後の立場は強いものとなったのだから。清須会議で強い発言権をもち、結果的に天下人となる。
当時、秀吉と光秀は信長から中国地方と四国への侵略を任せられていた。
日頃から信長に怨みをもっていた光秀に「2人で手を組み信長を葬ろう」と秀吉がそそのかし、信長の暗殺を決行させた。そうした仮説をもとに作った映画や小説もある。
信長が本能寺で死んだことを知ると、タイミングを見計らったかのように秀吉は猛スピードで長距離を移動し、わんさか敵の軍隊が潜んでいる中国地方を簡単に脱出し、京都まで帰還している。
中国地方は毛利家が仕切っていたが、信長の死後、毛利家は豊臣家の家臣となり、しかも豊臣家の重役として五大老に就任している。中国大返しの裏で、密かに毛利家と手を結んでいたのかもしれない。
あとは光秀と山崎で待ち合わせる約束を事前に交わしておき、口封じのために光秀を殺害したという見解。黒幕は秀吉で、その陰謀に光秀が踊らされたという説だ。
画像:毛利輝元の像(萩城)
<毛利家が関わっているとしたら?>
武田信玄が病死し、武田一族が滅んだあと、信長にとって脅威となったのは毛利輝元が治める中国地方だった。信長は秀吉を中国地方へ侵略させ、毛利家を織田家の配下につかせるように命じている。
輝元は織田家への服従を拒否し、豊臣軍に交戦していたが、いよいよ侵略が本格化すると危機が迫っていた。そこで輝元は毛利家に仕えていた僧侶・安国寺恵瓊に相談し、信長の暗殺を企てる。
当時、輝元は、信長に追われて訪ねてきた足利義昭を毛利家に住まわせ世話しており、将軍家と関わりのある光秀を説得し、交渉術に秀でていた安国寺恵瓊が光秀をそそのかしたのでは、という説もある。
同時に恵瓊は秀吉にも交渉し、「信長が亡きあと天下をとればいい。そうすれば毛利家は豊臣家の家臣として働く」という条件のもと、光秀が本能寺に向かっても信長の暗殺に目をつぶるよう説得。
しかし、恵瓊は頭がきれ、策士であり、用意周到な人物である。秀吉に”光秀の口封じ”を頼み、その代わり、中国大返しを全面的にサポートしたのではないかと推測できる。
あらかじめ秀吉が信長の暗殺を知っており、なおかつ毛利家や恵瓊のサポートがあったとすれば、わずかな期間で長距離を移動し、直ぐに光秀を討てたのも話の導線がつながる。
つまり、中国大返しや山崎の戦いとった秀吉の神がかり的な行動は”出来レース”だったわけだ。
事実、秀吉は清須会議で強い立場を確立すると、順調に全国の武将や大名を配下につけ、天下をとった。秀吉が天下をとると、すんなり毛利氏は豊臣家の家臣となっている。
毛利家や恵瓊は他の家臣よりも優遇を受けており、五大老の一人として丁寧に扱われていたとのこと。また、安国寺恵瓊は、こんな興味深い手紙を残している。
信長の時代は5年か3年か、そんな話だ。1年後には公家になるくらい出世するかもしれないが、そのうち、状況は一変するだろう。羽柴秀吉という男は優れた人物であり、この男が気になる。
といったような内容で、驚くことに、この手紙が書かれたのは1573年。本能寺の変が起こる9年前であり、未来を予言していたかのような文面である。
もし、こんな秘密を利休が知ってしまったとすれば、秀吉は利休を生かしてはおかないだろう。
この記事へのコメントはありません。