拡大する利休のネットワークを恐れた
利休は聚楽屋敷の茶室とは別に、少し離れた場所に草庵を建てる。草案とは、藁(わら)や茅(かや)などを屋根にした、こじんまりとした小さい家。どちらかと言えば粗末で質素な作り。
少人数で会話しながら茶を楽しむ目的で草庵を建てたが、密談の場としても使われていたという。利休は相談を受けたり、密談する場に立ち会って茶をたてていたとすれば、いろんな情報を知っていたことになる。
伝言を頼まれたり用件を預かったり、密談の仲介になったこともあるかもしれない。茶を楽しむのは大名や武家しか認められていなかったし、そうなれば利休のネットワークは広がっていく。
事実、利休に茶道を教わっていた大名や弟子入りしている武家も多い。聚楽屋敷の草庵は聚楽第に近かったため、出入りできるのは上級の大名や有力な武家であっただろう。
前田利家や蒲生氏郷、細川忠興や織田有楽斎、佐久間信盛や黒田長政、佐竹義宣や織田信秀など戦国の第一線を走ってきた大名や有力な武将たち。数えれば、まだまだいる。
各地域の情報は利休に集まり、大きなネットワークが出来上がる。今のように簡単に情報が手に入らない時代、利休のような存在は例をみない特別な存在だったと言える。
信長や家康、秀吉など忍者を雇って情報を集めるくらいだし、いかに情報が貴重なものだったかがわかる。
大きなネットワークをもつ利休が、もし家康のような力のある大名と手を組んだら・・・豊臣政権を脅かすことになるのは間違いない。豊臣家の家臣たちも、そちらに寝返るかもしれない。
ならば、いっそのこと消してしまったほうが・・・。そう考えても不思議ではないだろう。実際、利休のネットワークは大きかったと思う。大名や武家のみならず、関西の商人たちとの関係性は深い。
利休の木像の下を歩かされて怒った
大徳寺(京都市北区)は利休の住まいであった聚楽屋敷に近い。とはいえ、当時の距離感覚であって、今は車で20分ほどの距離。交通手段が徒歩だった時代だから仕方ないが。
親近感から大徳寺に縁を感じていた利休は、大徳寺の金毛閣(門)の改築が行われる際に寄付をしている。大徳寺は大名や武家も訪れており、格式の高い寺院であった。
大徳寺の僧侶は感謝の気持ちを込めて、大徳寺の責任者・古渓宗陳(こけいそうちん)が金毛閣の上に雪駄を履いた利休の木造を置いたのである。
画像:金毛閣(大徳寺)
ある日、秀吉が大徳寺を訪れたとき、利休の木像の下を通り抜け門をくぐる。しかし、これを知ったのは既に敷地内に入ってからのこと。すぐさま秀吉は怒り、聚楽第に帰ると利休を呼び出す。
「おい、利休。なんだ、あの大徳寺の木像は?高貴な人たちが通る門の上に木像を置くということは、その方たちの頭を雪駄で踏みつけるのと同じだぞ。弁解があるなら言ってみろ!」と。
無言の利休に対し、秀吉は「京都から出ていけ!」と追放する。謝りに来るだろうと秀吉は思っていたが、そのまま故郷の大阪に帰ってしまった利休。これまた秀吉は激怒。
そして、再び利休を聚楽第に呼び出すと「お前、死ね。切腹の日は後日、教えるから」と告げる。
まだ怒りがおさまらない秀吉は利休の木像を門から引きずり下ろし、その木像を聚楽屋敷の近くにある一条戻橋に縄で縛りつけ、磔(はりつけ)にした。
いろいろな説が飛び交っているが、この話がもっとも現実的と思われる。どの説にも共通して、秀吉が「利休の木像を一条戻橋で磔にした」という話が登場している。
そう考えれば、「利休の木造が秀吉を怒らせた原因」として筋が通ってくる。だから、「事件の発端である利休の木像を一条戻橋で磔にした」のではないだろうか。
利休が自害して間もなく、秀吉は「やり過ぎた・・・。なんで俺は、あんな酷いことをしたのだろう」と悔やんでいたそうだ。父のように慕い、旧知の仲だった”師匠”を死に追いやったことを後悔していたのである。
2月13日は、千利休が豊臣秀吉から謹慎を命じられた日。たかが謹慎に始まった出来事も、最終的には天下の茶人を死に追いやる事件にまで発展している。
利休の茶道は子孫によって現代も受け継がれており、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が流派として現存している。京都に行った際は、ぜひ伝統的な利休の茶を楽しんでみてはいかがだろうか。
●表千家
利休の孫にあたる宗旦が建てた茶室「不審庵」を三男の宗左に譲り、主に武士に茶道を教えていた。敷地内にあったことから「表千家」と呼ばれる
●裏千家
宗旦は不審庵の敷地に別の茶室を建て、そこに四男の宗室を連れて移り住む。主に商人に茶道を教え、表千家とは異なる作法の茶道であったため「裏千家」と呼ばれている。
●武者小路千家
宗旦の次男、宗守が京都の武者小路に茶室を建て、表も裏も関係なく地域密着で茶道を教えていた
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