暗殺説その2 新撰組による殺害
幕府に忠誠心を誓ったのは京都見廻り組だけではない。新撰組も幕府に命を捧げた組織の一つである。新撰組が龍馬に恨みを抱き暗殺した、この説を有力とする人も少なくない。
新撰組の参謀を務めた伊東申子太郎が事件後の事情聴取で、「現場に残されていた鞘(刀を入れる筒)が新撰組隊員の原田左之助のものである」と証言している。
また、龍馬と共に暗殺現場にいた中岡慎太郎が「こなくそ(愛媛県・伊予の方言)という声を聞いた」と証言していることから、伊予市の出身である左之助の実行説が強まったのだ。
まさか左之助が一人で実行したとは考えがたく、ゆえに新撰組に目が向けられたのである。
さらに、新撰組が通っていた料亭「瓢亭(ひさごてい)」の下駄が現場に残されていたこともあり、暗殺の前夜に新撰組に下駄を貸し出したという料亭側の証言もあった。
しかし、新撰組リーダーの近藤勇は尋問の際、暗殺の実行および関与を頑なに否定しており、伊東の証言は虚実であると断言している。とはいえ可能性はゼロではない。
幕府に反抗する長州藩と土佐藩の武士を1864年に池田屋で襲撃した前歴があり、新撰組が過去に京都で数多くの反幕府派を殺傷していることから暗殺説を全否定できないのである。
暗殺説その3 中岡慎太郎が殺した?
暗殺の当日、現場には龍馬と志を共にした盟友の中岡慎太郎もいた。
「龍馬は即死、寺田屋に同席していた中岡も暗殺者に襲われて2日後には死亡」というのが一般的な説であるが、これとは全く別の説を唱える文献がある。
「中岡が龍馬を暗殺した実行犯である」という“まさか”の説だ。その文献は、小説家の加地将一さん著者「龍馬の黒幕」。
徳川幕府の終焉として龍馬は大政奉還(徳川家から朝廷への政権交代)による穏やかな解決を望んでいたが、これに対して土佐藩は武力解決を望む倒幕派であった。
つまり、幕府の終焉という同じ目的をもつ同志でも、龍馬は平和主義での解決を望み、土佐藩は武力行使で幕府を壊滅させたかったわけだ。さらに、龍馬は土佐藩を抜けている身。
脱藩し、大政奉還を目指す龍馬の行動は武力で解決したい土佐藩の連中には目障りだったのかもしれない。そして、中岡も徳川家の壊滅を望む倒幕派だったことで知られている。
加地さんの考察によると、海援隊(旧・亀山社中)の中で倒幕派のリーダー的存在だった中岡を土佐藩が口説き、龍馬を暗殺するように誘導したのではないかと。
その根拠として、剣術に優れた龍馬と中岡が応戦せずに一方的に攻撃されていることや暗殺者の全員に逃げられていることが腑に落ちないという。
さらに、襲撃されたときの様子を危篤寸前で意識が定かでない中岡が証言している、ということも信憑性に欠けると考察している。
加地さんのシナリオは、まず油断している龍馬を中岡が斬りつけ、隠れて様子を見ていた土佐藩または倒幕派の薩摩藩・長州藩の武士が龍馬を斬りつけ、そのあと中岡を斬った。
また、史実によると事件後に中岡の証言を聞いたとされる人物は3人だが、その3人の話している内容が一致しないという点も事件当初の裏付けとして信憑性がない。
そもそも、本当に中岡は証言したのか・・・。しかし、もし本当に中岡が暗殺の実行犯だとしたら、志を共にした盟友から裏切られた龍馬は無念である。
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