暗殺説その6 土佐藩が暗殺の実行犯?
画像:鞆の浦滞在時の坂本龍馬再現レプリカ(広島県福山市鞆の浦-いろは丸展示館)
前編の暗殺説その3「中岡慎太郎が殺した?」でも土佐藩の関与を疑っているが、それとは別に土佐藩が直接的に龍馬の殺害を実行したのではないかという説もある。
龍馬は“いろは丸”の一件で、紀州藩から7万両(現在の価値で85億円ほど)の賠償金を支払われる予定だった。しかし、受け取る前に暗殺されている。
龍馬が亡きあと多額の賠償金を誰が受け取ったかは不明だが、一説によると土佐藩の後藤象二郎や岩崎弥太郎が預かったと書かれた文献もある。
岩崎は武器商人をしていたため、戦争が起きれば儲けられると考えていた。しかし、武力による解決を望まない龍馬が目立つ行動をすれば商売の邪魔になる。
また、後藤にいたっては、龍馬に頼まれ大政奉還の提案書を自分の名前で土佐藩主・山内容堂へと提出している。しかし、そのことを薩長の倒幕派に知られると厄介である。
商売の邪魔になるという岩崎の目的と事実を隠しておきたい後藤の思惑が一致し、近江屋へと出向いて龍馬を暗殺したのではないかと考察できる。
まさか身内から殺されるとは思わず油断している龍馬を斬りつけ、そばにいた中岡まで殺害したのではないだろうか。目的を果たし、さらに賠償金まで奪えれば一石二鳥の話。
また、後藤に関しては別の見解もある。後藤が大政奉還の実現に奮闘しているとき、龍馬は薩長と手を組んで武力解決を望む動きを見せ、土佐藩に武器を融通して倒幕を煽ったのだ。
その際、倒幕派の板垣退助をリーダーに動こうとする龍馬が記した書状も現存しており、この事実を知った後藤が「龍馬に裏切られた」と思い込み暗殺したという説である。
平和解決を望む盟友として龍馬を信用し尽力してきたのに・・・、倒幕派の目を気にしながらも必死で力を貸してきたのに・・・、そんな想いが恨みに変わってしまったのかもしれない。
謎多き龍馬の暗殺
画像:坂本龍馬と中岡慎太郎の墓(京都霊山護国神社)
今回は龍馬の暗殺に関する説を紹介させていただいたが、6つの説を基に“龍馬が殺害された原因”を考えると3つの要素が考えられる。
【幕府側の恨みを買った】【武力による倒幕を望む者たちから邪魔な存在と認識された】【武器商人が自己の利益のために排除した】こうした要因が龍馬の暗殺に深く関わってくる。
とはいえ、やはり今のところ有力視されているのは「京都見廻り組」の説である。現場に残された状況証拠や当事者の証言などが6つの説の中でも最も信憑性が高い。
新しい国家を求め尽力し、薩長同盟や大政奉還の立役者となった龍馬だが、無情にも新時代の幕開けを見ることなく31年の生涯を終えた。生前に龍馬は、こんな言葉を残している。
『たとえ志半ばで倒れても仕方ない。だが、そのときは目標の方を見て倒れよう』
1867年12月10日、どんな想いを抱えながら龍馬は逝ったのだろうか。無念な想いか、それとも期待に胸を膨らませながら最後の時を迎えたのだろうか。
現在、龍馬の墓は京都霊山護国神社にある。隣には中岡慎太郎の墓もあり、盟友と並び京都の町を見下ろしている。さて今の日本は、龍馬が夢見た国になっているのだろうか。
<京都霊山護国神社>
京都府京都市東山区清閑寺霊山町1
8時00分~17時00分
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