龍馬とフリーメイソンの関係性は?
さて、前置きが長くなってしまったが、ここからが本題。坂本龍馬はフリーメイソンの会員だったのか、というテーマに入ろう。その前に、幕末の龍馬と関わりが深い出来事を簡単におさらいしてみる。
19歳で江戸に上京し、江戸湾浦賀(現在の横浜市横須賀の東部)で黒船を目の当たりにした龍馬は、危機感を抱くと同時に”世界は広い”と希望に胸を震わせた。
事実、黒船が来航した以降、江戸の町は慌ただしくなり、情勢が乱れ始める。
28歳(1862年)のとき、土佐藩を勝手に辞め、勝海舟の弟子となる。31歳で長崎に亀山社中を設立し、翌年の3月7日には薩摩藩と長州藩を仲介して薩長同盟を締結させる。
33歳、土佐藩の後藤象二郎と仲良くなり、土佐藩とのつながりを深め、亀山社中は海援隊と名を改める。新しい日本の方針を示した「船中八策」を考案し、11月9日には大政奉還が成立する。
同年12月10日に暗殺され、33歳の若さ(旧暦で数えると31歳)で死去した。誰が龍馬を殺したのか、様々な推測や仮説が飛び交っていて真相は未だ謎である。
龍馬といえば、幕末を代表する人物の一人。しかし、龍馬がメジャーになったの司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の影響によるもので、それ以前は龍馬の存在はあまり知られていなかった。
主に、薩長同盟、船中八策、大政奉還、これら出来事を成し遂げるまでの龍馬の行動が”偉業”としてクローズアップされ、明治維新に関与した重要人物の一人として名が挙がるようになった。
では、本題に戻ろう。龍馬とフリーメイソンのつながりを調べるにあたり、キーマンとなるのが「トーマス・グラバー」である。グラバーはスコットランドの出身で、1859年9月17日に長崎へ来日したイギリスの商人。
長崎市南山手町にジャーディンマセソン商会の日本支社としてグラバー商会を設立し、その跡地はグラバー邸と名称を変えて現在は一般公開されている。
ジャーディンマセソン商会はスコットランド出身のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが1832年に中国広州に設立したのが始まり。大商社となり、アヘン戦争を引き起こした黒幕という説もある。
同郷のグラバーに日本支社を任せ、長崎と横浜に支社を設立。横浜支社の跡地には、現在、国際貿易観光会館(シルクセンター)が建っている。
設立から185年が経った今でもジャーディンマセソン商会は事業を続けており、世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として年間5兆円を超える売上高を維持している。
トーマス・グラバーと龍馬の出会い
画像:つつじまつり~江戸幕府鉄砲組百人隊出陣~(館林市公式動画チャンネル)
龍馬がグラバーと始めて会ったのは1865年、31歳の頃。勝海舟と交友のあった長崎の富豪であり商人の小曽根英四郎が、龍馬にグラバーを紹介したのが初見と言われている。
当時、ジャーディンマセソン商会は南北戦争に乗じて売るための武器を用意しており、ところが予想よりも早く戦争が終結したことで大量の武器が在庫となっていた。売れなければ鉄くず同然・・・
そんな矢先、「日本の情勢が不安定だから戦争が起きるかもしれないぞ」という噂を聞きつけ、ジャーディンマセソン商会は日本で武器を売りさばく目的があったようだ。そのミッションを与えられたのがグラバー。
アメリカのペリーが来航して幕府に開国(貿易や情報交換など外国と交流しなさい)を要求し、1854に日米和親条約を交わした以降、日本の情勢は不安定になる。
イギリスやロシア、オランダとも立て続けに和親条約を結んだが開国というのは名ばかりで、実際のところ日本は”カモ”にされていただけ。もはや、どこの国の領土なのかチンプンカンプンの状態。
この状況に納得しない武士たちが幕府と対立するようになり、決定的な出来事となったのが長州藩の吉田松陰が徳川家の家臣・井伊直弼に処刑された事件(1858年 安政の大獄)だった。
その1年後、井伊直弼は桜田門外(現在の警視庁の前に位置する)で水戸藩出身の武士や薩摩藩の武士に襲撃され、暗殺される。1856年に起きた桜田門外の変である。
そんなこんなで治安は悪化、情勢も良いわけがない。以降も、長州藩が下関でアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃したり、長州藩の高杉晋作が騎兵隊をつくって幕府を挑発したり、さらに対立は本格化。
1863年に八月十八日の政変(幕府が長州藩の武士たちを京都から追い出した事件)が起きると、長州藩は大きなダメージを受けるが、幕府は手をゆるめることなく翌年に長州藩を攻撃する(第一次長州征討)。
儲け話に敏感なグラバーは「金が動く」とアンテナを張り、武器を売りさばくチャンスが来たと考えただろう。フランスが徳川幕府に武器を売ってバックアップしていたが、幕府からグラバーにも注文が入る。
一説によると、「薩長同盟はグラバーのシナリオだったのでは?」という説がある。幕府だけではなく長州藩にも武器を売って大きく稼ごうとしたが、長州藩は弱体化しているので薩摩藩と手を組ませてから売ろうと考えた
しかし、幕府に知られてはマズい。そこで武器の仲介人として選んだのが龍馬だったのではないだろうか、と。
まずは龍馬に薩長同盟を結ばせ、そのあとで武器を売るシナリオを考えたのではないか、と。
それは現実のものとなった。だが、グラバーにはもう一つ問題があった。それはフランスの存在だ。幕府が勝てば当然ながらフランスが利権を握ることとなる。ならば、いっそのこと幕府が負ければ・・・
グラバーは幕府の注文を断り、龍馬を通して薩長に武器を売った。薩長には資金がなかったので”ツケ”で売ったが、薩長が勝てば徳川家の財宝を没収できるから簡単に回収できると考え、迷いはなかった。
幕府は第二次長州征討を決行するが、薩摩を味方につけた聴衆が勝ち、このとき勝因の一つとなったのがグラバーが売った最新式の武器でもある。
そして、グラバーはフリーメイソンの会員でもあった。1959年9月19日に上海のロッジで入会したと言われており、同年に長崎へと来日し、グラバー商会を設立している。
また、ジャーディン・マセソンもフリーメイソンとの関わりがあり、グラバーがフリーメイソンと強いつながりもっていたことを示すポイントの一つと言える。
フリーメイソンが初めて来日したのは1779年。オランダ商館の館長として長崎に来日したオランダ東インド会社のイサーク・ティチング日本に初上陸した最初の会員だった、と言われている。
黒船で来航したペリーもフリーメイソンの会員。1865年には横浜にロッジが設立されたが、幕末に様々な事柄が起きていることを考えると、この時期に日本初のロッジが設立されたのは興味深い。
1853年 黒船でペリーが横浜に来日。開国を要求する
1854年 徳川幕府は日米和親条約を締結。移行、様々な事件が起きる
1859年 グラバーがフリーメイソンに入会
1859年 グラバーが長崎に来日。グラバー商会を設立
1864年 グラバーと龍馬が出会う
1865年 長崎に亀山社中を創設
1865年 横浜に日本初のロッジが設立
1866年 長崎と神戸にロッジが設立
1866年 長州藩と薩摩藩が薩長同盟を締結
1866年 グラバーは龍馬の仲介で薩長に武器を売る
1867年 第二次長州征討を行うが薩摩藩のバックアップで長州藩が勝利
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坂本龍馬はフリーメイソンだったのか?グラバーや勝海舟との出会い、龍馬暗殺との関係(後編)
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