田原坂の戦い、薩摩軍の敗因は?
画像:犬養毅(近世名士写真其之1-国立図書館)
当時、報知新聞の記者だった犬養毅は薩摩軍が田原坂で負けた理由に関し、次のように記している。
薩摩隼人の敗因は、一に雨、二に赤帽、三に大砲 |
先に述べたように、雨が降ると薩摩軍が使っていた旧式の銃は役に立たない。また、薩摩軍の兵は木綿の着物を着ており、水で濡れると重くなって身動きが取りづらくなる。
さらに、草鞋(わらじ)を履いていたので雨と泥のぬかるみで動きずらい。政府軍は水に強いラサ産の軍服に革の素材に似た軍靴、雨の日でも影響しない最新式の銃で戦況を有利に運んだ。
そして、情報伝達の差も大きかっただろう。事実、すでに八代を占領したことを田原坂の政府軍は19日に知っていたのに対し、薩摩軍は戦いが終わったあと(20日の夜)に知らされた。
この報告を聞き、慌てて熊本へと兵を引き返す薩摩軍だったが、そこでも苦戦を強いられることになる。
※犬養毅・・・出生は岡山市北区。のちの29代目、内閣総理大臣。1875年に上京し、慶応義塾に在学しているとき「郵便報知新聞」の記者として活動している。西南戦争では取材や報道を担当した
画像:藤田伝三郎之写(華族画報社「華族画報」)
これは余談だが、西南戦争で軍靴の発注が急激に増加し、荒稼ぎした人物が藤田伝三郎。
貿易業の岩崎弥太郎や武器商人の大倉喜八郎の次に、明治維新で富を得た人物の一人である。伝三郎は藤田伝三郎商店を設立し、軍靴製造を開始。西南戦争で巨額の利益を得た。
少し話は反れたが【中編】はここまで。
【後編】では再び「熊本城」での攻防戦、さらに西郷隆盛の最期となる「城山の戦い」をクローズアップして西南戦争が終結に至るまでを紹介したいと思う。
【後編】は、こちら↓
明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」の最後の戦いとなった「西南戦争」とは?【後編】
(1887年)田原坂の戦い
2月27日 高瀬の戦いで薩摩軍の桐野隊と政府軍が衝突。薩摩軍は撤退
3月3日 政府軍は田原坂と吉次峠の攻略に向けて攻撃を開始 3月4日 吉次峠の戦いで薩摩軍は政府軍に勝利 3月15日 薩摩軍は田原坂と吉次峠の中間に設けていた要所・横平山を政府軍に奪われる 3月19日 政府軍の別動隊と衝背軍が海路から上陸し、熊本城の援護に向け八代市を占領 3月20日 奇襲攻撃により田原坂の戦いで政府軍が圧勝。薩摩軍は敗走 |
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