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明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」最後の戦い「西南戦争」とは?【後編】

両軍が城山に配備する

画像:「桜島」城山からの展望(城山公園)

9月6日、完全に政府軍の城山包囲が完了し、いよいよ薩摩軍は終焉のときを迎えようとしていた。薩摩軍の兵力は300をきっており、もはや瀕死の状態だった。

<城山に籠城する薩摩軍の配備図>

狙撃隊・・・(西郷の警護)小隊長、蒲生彦四郎

城山・・・小隊長、藤井直次郎(後方部隊は小隊長、市来矢之助)

岩崎本道・・・小隊長、河野主一郎

私学校(角矢倉方面)・・・小隊長、佐藤三二

県庁(二ノ丸・照国神社方面)小隊長、山野田一輔

大手(本田屋敷方面)小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎

上の平(広谷・三間松方面)小隊長、河野四郎左衛門

新照院(夏陰下方面)小隊長、中島健彦

夏陰公園・・・小隊長、岩切喜次郎

後方部隊・・・小隊長、園田武一

9月8日、政府陸軍の総司令官・山県有朋が城山に到着。

<城山を囲む政府軍の配備図>

●第2旅団 指揮、三好重臣少将

丸岡・浄光明寺・上の原に配置

● 第3旅団 指揮、三浦梧楼少将

高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋

● 第4旅団 指揮、曽我祐準少将

多賀山・鳥越坂・桂山

● 別働第1旅団 指揮、高島鞆之助少将

甲突川・西田橋・朽木馬場

●下伊敷・・・別働第2旅団 指揮、山田顕義少将

●米倉・・・警視隊、抜刀隊(新撰旅団)

 

城山の最終決戦

画像:西郷隆盛終焉之地(城山公園-洞窟)

薩摩軍の意向は「無降伏、徹底抗戦」であった。薩摩軍は岩崎谷(私学校の近く)に10ほどの横穴を掘り、その穴倉が西郷や幹部の指令室になった。

山県は「一に包囲、二に攻撃」の方針を立て、城山の周囲に強固な防御壁を構築し、さらには高く積み上げた土袋や石垣など、誰一人として城山から逃げることを許さなかったのである。

4000人だったはずの政府軍は最終的に4万7000人弱。しばらくは緊張状態が続いたが、ついに山県は城山への総攻撃を決定する。この決定を受けた桐野は、西郷に告げる。

「潔く戦って散ってこそ西郷殿」と。

桐野は西郷の右腕であり、幾多の修羅場を共にした盟友。これに対し、桐野や辺見、河野など、西郷を”先生”と慕う同志たちは「せめて先生だけでも生きてほしい」と懇願する。

9月23日、河野は軍の遣いとして政府の川村純義に接触し、西郷の助命を申し出たが、政府の返答は「釈明したいことがあれば本日の午後5時ちょうどまでに申し述べよ」とのことだった。

つまり、降伏しなさいという勧告である。河野は捕えられ、そのまま政府軍に留められた。この報告を同席していた山野田一輔が西郷に持ち帰ると、「潔く・・・。回答の必要はない」と重い口を開けたそうだ。

玉砕を覚悟し、潔く死ぬことを決意した薩摩軍。その日の夜、城山の敷地で最後の宴会を催したという。

画像:西南戦争で没した薩摩2023の魂が眠る墓所(南洲墓地)

西郷が城山に帰還してから22日後の9月24日、ついに城山の戦いが開戦する。午前4時、政府軍は3発の大砲を放ち、これを合図に一斉射撃しながら城山へと流れ込んできた。

午前4時に始まった政府軍の総攻撃に、わずか2時間で薩摩の兵は一掃され、残るは西郷ら幹部がいる岩崎谷のみとなる。

最期のときを覚悟した西郷・桐野、桂久武、村田、池上、別府、辺見ら幹部40名は西郷が籠っていた(こもる)穴倉の前に整列し、政府軍が突撃してくるであろう岩崎口に向けて突進した。

追い詰められた国分寿介、小倉壮九郎が自刃。桂が被弾して倒れると、被弾する者が相次ぎ、島津応吉久能邸の門前で西郷も股と腹に銃弾を受ける。

負傷した西郷は「もはや、これまで・・・」と自刃を決意し、そばにいた別府に「晋どん、晋どん、ここでよか」と言い、将士たちがひざまずいて見守るなか、正座し、襟を正し、遠く東方に拝礼した。

西郷が切腹すると、別府は「ご免なったもんし(許しください)」と叫ぶながら西郷を介錯(切腹した者の首を斬ること)。すぐさま別府も、西郷の後を追うように切腹した。

画像:西郷隆盛之墓(南洲墓地)

西郷の切腹を見届けた桐野、村田、池上、辺見、山野田、岩本らは再び岩崎口に突撃し、銃弾を浴びながらも政府軍を目掛けて突撃する。

9月24日、午前9時。突如、城山から銃声が止んだ。およそ5時間で決着はつき、薩摩軍は多くの勇士を失った。西南戦争の戦死者は政府軍が6403人、薩摩軍は6765人にも及んだ。

また、西南戦争で出資した政府の軍事費は4,100万円を超え、当時、政府の税収が4,800万円だったことを考えると、そのほとんどを使い果たすほど規模の大きい戦争であったことがわかる。

西南戦争の主な出来事・年表

(1877年)西南戦争の発端~二重峠の戦いまで

1月30日 薩摩の私学生が政府軍の火薬庫を爆破

2月5日   明治政府に呼び出され西郷は事件の重大さを言及される

2月6日   西郷は私学校を「薩摩軍本営」に変更し、明治政府と対立することを表明

2月9日   政府軍の総司令官・山県有朋は各地の政府陸軍に熊本への出動を命令

2月15日 別府晋介が率いる薩摩軍の先発隊が熊本城を目指し出発

2月20日 先発隊は熊本城に入る手前の川尻で政府軍の砲撃を受けたが交戦し、勝利

2月22日 城の東側・白川の河岸で薩摩軍・池上四郎の部隊は政府軍の砲撃を受ける

(政府の援軍が横浜・京都から博多に上陸。熊本に向けて南下)

2月23日 政府の援軍・乃木希典が率いる小倉第14連隊500人に別府隊が植木市で勝利

2月25日 西郷は3000人を熊本城に残し、残り全軍は政府の派遣部隊の阻止に向け北上

3月18日 二重峠の戦いで薩摩軍は勝利。政府軍・第一小隊長の佐川官兵衛が戦死

明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」最後の戦い「西南戦争」とは?【前編】>>

 (1887年)田原坂の戦い

2月27日 高瀬の戦いで薩摩軍の桐野隊と政府軍が衝突。薩摩軍は撤退

3月3日   政府軍は田原坂と吉次峠の攻略に向けて攻撃を開始

3月4日   吉次峠の戦いで薩摩軍は政府軍に勝利

3月15日 薩摩軍は田原坂と吉次峠の中間に設けていた要所・横平山を政府軍に奪われる

3月19日 政府軍の別動隊と衝背軍が海路から上陸し、熊本城の援護に向け八代市を占領

3月20日 奇襲攻撃により田原坂の戦いで政府軍が圧勝。薩摩軍は敗走

明治維新に命を懸けた「西郷隆盛」最後の戦い「西南戦争」とは?【中編】>>

(1877年)政府軍の上陸作戦~城山の最終決戦

3月26日 衝背軍が小川で薩摩軍に勝利。熊本城に向けて北上

3月31日 衝背軍が松橋で薩摩軍に勝利。熊本城に向けて北上

4月1日   衝背軍が宇土で薩摩軍に勝利。別動隊と合流

4月15日 薩摩軍が熊本城から完全撤退。南下して人吉を目指す

6月1日   人吉で政府軍の攻撃を受け薩摩軍は撤退。延岡を目指す

7月24日 政府軍が都城を占領

8月14日 政府軍が薩摩軍・宮崎本陣の延岡を占拠

8月15日 西郷は延岡の奪還を試みるも敗戦

8月17日 西郷、可愛岳を突破して政府軍の包囲網を抜け出す

8月24日 西郷、神門神社で松浦少佐が率いる第2旅団の攻撃を受ける

8月26日 西郷、宮崎の村所(西米良村)に到着

8月27日 西郷、須木村を経由して小林市に入る

9月1日   西郷、吉野を南下して城山に入る

(薩摩の辺見隊は政府の守備隊を交戦し、私学校を奪還する)

9月3日   薩摩軍は城山に部隊を配置

9月4日   貴島が米倉の奪還を試みるが失敗。貴島、戦死。

9月6日   政府軍の城山包囲が完了する

9月8日   政府軍の総司令官・山県有朋が城山に到着

9月23日 薩摩の河野が政府に西郷の助命を求めるが、西郷が拒否

9月24日 城山の戦いが開始。5時間で決着し、薩摩軍は大敗。

(西郷は自害。以下、薩摩の勇士たちも次々と戦死)

 

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