暗殺5日前に坂本龍馬が書いた手紙に記された「由利公正」とは何者?(後編)
画像:龍馬暗殺5日前の書状(高知県立高知城歴史博物館 )
前編では由利公正の経歴や実績、坂本龍馬との親交などチェックしましたが、引き続き、由利が明治政府で行った経済政策や財政の立て直しについてお話したいと思います。
最後に締めくくりとして、「龍馬が暗殺される5日前に書いた直筆の手紙」に隠された謎についても触れてみたいと思います。龍馬暗殺の鍵を握る人物は中根雪江なのか・・・、果たして真実は?
太政官札の発行
画像:太政官札 一両札
明治政府に配属された由利は「五箇条の御誓文」の原案(起草)を完成させると、次に、政府の財政を立て直すために「太政官札」の普及に着手します。
<太政官札を発行する目的>
・殖産興業を行うための資金づくり
・通貨をコントロールし、お金の流れをわかりやすくする
太政官札とは明治政府が発行した紙幣で、金札とも呼ばれていました。紙幣といえば、それまでは各地の藩が藩札を発行し、その藩だけでしか使用できませんでした。
一方、太政官札は全国で通用する紙幣なので、現代で例えるなら1万円札や5千円札といった日本円札(日本銀行券)のようなものと考えれば分かりやすいですね。
戊辰戦争で多額の軍資金を投じた明治政府の財政状況は厳しく、殖産興業を行うための費用が不足していて金欠状態。そこで由利は13年の通用期間を定め、1868年5月に太政官札を発行します。
通用期限といっても、つまりは試用期間のタイムリミットというわけで、由利にとって是が非でも太政官札の流通を国民に定着させ財政を立て直す必要があったのです。
また、国内には旧幕府が発行した金・銀・銭貨(銅)、藩札などの貨幣が複雑に流通しており、通貨をコントロール(わかりやすく)して日本経済を透明化したいという課題もありました。
10両、5両、1両、1分、1朱の5種類の太政官札を発行し、これらの紙幣を普及させることで金・銀・銭貨など硬貨の流用を減らし、お金の流れをわかりやすくするのが目的です。
紙幣であれば小判や銀貨のように金・銀を使う必要はありませんし、由利は過去に藩札の増刷で福井藩の財政を立て直した実績もあり、非現実的な政策ではないという明治政府の判断でした。
しかし、太政官札を発行した当初はスムーズに流通しませんでした。紙幣は金や銀と違って言うなれば紙切れ。その国に信用があるから、紙切れでも“お金”として成立するわけです。
このとき、日本は戊辰戦争の最中で、幕府が勝つのか、明治政府が勝つのか国民は分からない状況。もし明治政府が負ければ、明治政府が発行した太政官札は紙切れになってしまいます。
つまり、発足したばかりの明治政府には信用がなかったのです。さらに、当時の農家や庶民は銭貨を使っていたので紙幣に馴染みがなく、そんな状態で太政官札を使うのに抵抗があったわけですね。
由利公正が行った経済政策
さて、財政再建の打開策としてスタートした太政官札ですが、思うように普及せず、由利は強行手段に打って出ます。自主的に使わないなら強制的に使わせよう、と考えました。
まずは東京の韮山をモデルケースに、村人に対して租税の上納を太政官札で義務付けます。
皇国一円に金札が通用するようにと仰せられた上は、明治元年の租税の金納分と諸々の上納品は東京では金札で納めるべきこと。
参考:1869年1月27日 東京韮山県への政府書状
簡単に言えば、「税金は太政官札で払ってください」というルール。そうなると、村人は嫌でも太政官札を使わければいけません。少し強引ですが、それほど切羽詰まっていたということですね。
さらに、韮山県下多摩の豪農(地主レベルの儲かっている農家)6名に2900両分の太政官札を貸し付け、その資金を運用するように言い渡しました。
貸し付けた太政官札の内訳
1朱札・・・4000枚(250両)
1分札・・・7200枚(1800両)
1両札・・・200枚(200両)
5両札・・・50枚(250両)
10両札・・・40枚(400両)
分配された貸付金の内訳
500両・・・村野源五右衛門(立川市砂川村)
500両・・・田村重兵衛(福生市福生村)
550両・・・吉野文右衛門(青梅市新町村)
550両・・・細谷五郎右衛門(青梅市友田村)
500両・・・内野杢左衛門(東大和市蔵敷村)
300両・・・下田半兵衛(田無市田無村)
大政奉還を経て王政復古の大号令、やがて戊辰戦争が勃発して情勢が不安定のなか、財政の立て直しとして開始した太政官札の運用は一定の成果を挙げます。
幕末の1868年から戊辰戦争が終結した明治2年(1869年6月27日)までの期間で、戊辰戦争の軍資金も含めると明治政府の財政を支えたのは太政官札の造幣益(※1)という結果。
支出5,129万円のうち、94パーセントの4,800万円の費用(※2)をまかなったのは太政官札の造幣益であり、由利の行った財政再建は明治政府の躍進に大きく貢献したと言えます。
明治維新の陰に由利の尽力があったことを忘れてはなりません。しかし、太政官札を発行した当初に国民の混乱を招いた責任として、由利は明治政府の職を辞任しました。
※1造幣益・・・貨幣の発行によって生じる資金運用益。増刷した貨幣を運用して生じた利益
※2参照元:明治前期の財政経済資料集成(第4巻)
殖産興業とは?
画像:旧富岡製糸場
太政官札による財政の立て直しは、そもそも殖産興業を行うための資金づくりが目的でした。せっかくなので、殖産興業についても少し理解しておきましょう。
殖産興業とは、官営(政府が経営する)工場や事業に明治政府が着手し、近代的な産業を積極的に増やすための経済政策です。(官営の対義語は民営)
明治政府が主導となり、鉄道や鉱山、造船や生糸の生産など事業拡大を目指しました。たとえば、農民が造船の事業を始めたくても資金や知識、技術がなくては成立しません。
そこで政府は、業種に応じたプロを海外から雇って1870年に殖産興業を管轄する工部省を設置し、岩倉具視が率いる岩倉使節団を海外に派遣して外国の産業や経済状況の視察を行っていました。
それに合わせて議会や自治制度など政治に関する視察も行っていたのです。由利も岩倉使節団の一員でしたし、明治政府の財政担当として殖産興業にも深く関わっていました。
殖産興業は主に、鉱山、砲兵工廠、造船、紡績などが有名。ちなみに、世界遺産に登録(2014年6月)された富岡製糸場は日本初の官営工場となります。
<鉱山>
旧幕府や藩が運営していた鉱山を引き継いで明治政府が経営。
●鉱山・・・生野・佐渡・小坂・釜石・阿仁・院内・大葛
●炭鉱・・・三池・高島・幌内・油戸
<砲兵工廠>
旧幕府が管理していた大砲や鉄砲の製作所を明治政府が引き継いで経営。
●江戸関口大砲製作所を「東京砲兵工廠」に変更
●長崎製鉄所を「大阪砲兵工廠」に変更
<造船所>
旧幕府が運営していた造船所を明治政府が引き継いで経営。
●横須賀製鉄所を「横須賀造船所」に変更
●兵庫製鉄所を「兵庫造船所」に変更
<模範工場>
殖産興業の模範となる工場。フランス製の機械を導入した製糸業が代表的。
富岡製糸場、千住紡績所、新町紡績所、境紡績所、愛知紡績所、広島紡績所
ほかにも郵便や鉄道などの殖産興業もあり、安定した事業は民間への“払下げ(はらいさげ)”が行われました。払下げとは、官営の工場や事業を民間に低価格で売ること。
主な払下げ先は政商(※)でしたが、政府は赤字覚悟で資金を費やし殖産興業に取り組んでおり、ある程度の形になったら払下げして民間同士で事業を競い合わせていました。
政府の目的は近代的な産業を積極的に増やすことですから、利益よりも国内の近代化を目指して殖産興業を進めていたわけです。払下げして民間が利益を出せば税金として利益を徴収できますしね。
※政商・・・政府にコネをもっていた商人。当時、三井や安田、三菱や住友など財閥が代表的
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