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暗殺5日前に坂本龍馬が書いた手紙に記された「由利公正」とは何者?(前編)

暗殺5日前に坂本龍馬が書いた手紙に記された「由利公正」とは何者?(前編)


画像:近世名士写真 其1「由利公正」(国立国会図書館)

2017年1月13日、「暗殺される5日前に坂本龍馬が書いた直筆の手紙」が発見されたことを高知県が発表しました。つまり、龍馬が生前に書いた最後の手紙です。

文中で「新国家」や「御家計(財政)」という言葉が使われており、龍馬が幕末(明治維新)に関与していたことを示す貴重な史料として注目を集めています。

宛先は福井藩の中根雪江に向けたものですが、この手紙には「三岡八郎(由利公正-ゆりきみまさ-)」に関する内容が記されており、由利と龍馬に交流があったことを示す証拠としても価値が高いようです。

由利公正とは?


画像:龍馬「新国家」熱く記す(西日本新聞2017年1月14日号)

優秀な経歴をもつ由利公正。龍馬や西郷隆盛のようにメジャーな人物ではありませんが、幕末や明治維新を語るうえで由利を知らなければ“モグリ”と言われるほど、ずば抜けてポテンシャルの高い人物です。

熊本藩の横井小楠に影響を受け、財政・経済を学び、その才覚を幕府の重臣および福井藩主の松平春嶽に高く評価され、福井藩の財政改革や金融政策に手腕を発揮しました。

明治時代に入ると新政府の金融・財政担当を務め、辞職後は東京府知事に就任。五箇条の御誓文の原案(議事之体大意)を作成し、岩倉具視と欧米を視察し、海外の自治・議会の制度を研究。

政治の世界を離れ独立すると京都で生命保険会社を起ち上げ、有隣生命保険の代表取締役になりました。有隣は明治生命(現在の明治安田生命保険)に吸収合併され、創設49年目で閉業。

幕末といえば龍馬を思い浮かべる人も多いでしょうが、実は、由利も龍馬と親交が深かった人物の一人です。龍馬は暗殺される数日前に福井を訪れ、由利と会っていたことが直筆の手紙からも分かっています。

坂本龍馬が中根雪江に送った書状の現代語訳

一筆啓上申し上げます。この度、越前の老侯(松平春嶽)がご上京になられたことは千万の兵を得た心持ちでございます。先生(中根雪江)が諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら、先ごろ直接申しあげておきました三岡八郎兄(兄=尊敬の気持ちを込めた特別な呼び方)のご上京、新政府にご出仕の一件は急を要することと思っております。
早急に越前藩のご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄上のご上京が一日先になったならば新国家の財政の安定が一日先になってしまいます。何卒、この一点にご尽力をお願いいたします。

※京都国立博物館「宮川禎一」上席研究員による現代語訳を参考に編集

文中の「先ごろ直接申しあげておきました」とは、つまり、「先日お会いしたときに直接伝えた」という意味。では、なぜ龍馬は大政奉還の直後に福井へ出向き、由利と会っていたのでしょうか。

  大政奉還と明治維新


画像:明治天皇 絵画と聖蹟「第2回 大政奉還」(明治神宮崇敬会)

由利は福井藩の財政担当。福井藩主の松平春嶽は幕府の重臣であるから、当然ながら由利も徳川幕府に属するわけです。とはいえ、幕府と敵対する薩摩や長州と仲が悪いわけでもなく・・・。

しかし、幕府が明治天皇に政権を返上(大政奉還)すると、福井藩は微妙な立場になります。やがて明治維新の動きが強まり、薩長を中心とした新政府が討幕を掲げ、戊辰戦争へと発展しました。

明治維新について知る前に正しく理解しておかなければならないポイントが、「尊王攘夷」から倒幕へ、「倒幕」から討幕へ、天皇を支持する者たちの“考え方の変化”です。

関ケ原の合戦から大坂夏の陣を経て豊臣家を滅ぼした家康は江戸に幕府を開き、15代に続く徳川将軍が天皇に代わって政治の実権を握ると、264年にわたって日本を動かしてきました。

立場的には天皇が上でしたが実際には徳川家が権力を支配した状態で、徳川幕府に不満を抱いた薩摩藩や長州藩は手を組み、倒幕(幕府を倒す)運動を起こします。

もともと尊王攘夷派(外国の侵略を防ぎ天皇を敬う国家を目指す)だった長州は次第に倒幕へと考え方が変わり、その理由は貿易や軍事など幕府が外国と親交を深め始めたからです。

1853年7月8日にペリーが浦賀に黒船で来航し、外国と幕府の交流(のちの日米和親条約)が長州に倒幕を決意させる火種となりました。

薩摩については、薩摩の最高権力者である島津久光が15代将軍の徳川慶喜に不信感を抱き、幕府と対立したことが倒幕派になった発端です。

そして、薩摩と長州は1866年3 月7日に同盟(薩長同盟)を結び、ついに武力による幕府への攻撃を開始します。幕府の形勢が危うくなるなか、福井藩は中立の立場を保っていました。


画像:近世名士写真 其1「坂本龍馬」(国立国会図書館)

薩長の武力活動が激しくなると、倒幕・幕府にも属さない「公議政体」の土佐藩が慶喜に「大政奉還」を提案し、陰で画策していた人物が元土佐藩の坂本龍馬や土佐藩の後藤象二郎です。

公議政体とは、「幕府と尊王攘夷派が協力し合って共に政治を行う」といった平和的な政策。

後藤は龍馬の立案した「船中八策(新国家の方針案)」をもとに土佐藩主の山内容堂を通して慶喜に大政奉還を進言し、1867年11月9 日に徳川幕府は明治天皇に政権を返上しました。

薩長の圧力に危機感を抱いた慶喜は公議政体派の土佐藩に後押しされ、政治の権利を天皇に返す(大政奉還する)ことで倒幕派との戦争を回避すると同時に幕府の存続を維持しようとしたわけです。

天皇に政権が移っても幕府の権力は衰えず、徳川を支持する大名たちが多く残存している中で国家は一つにまとまりませんでした。それもそのはず。264年の実績が、すぐに弱まるわけがないですもんね。

薩長は王政復古(幕府を消滅させ天皇を中心とした新国家の起ち上げ)を呼びかけ、薩長に土佐も加わり新政府が発足すると明治天皇は討幕を許可し、旧幕府VS新政府による「戊辰戦争」が勃発。

倒幕は「幕府を倒す運動」ですが、討幕となれば「武力で幕府を滅ぼす」ことを意味するため、天皇が討幕を許可したということは徳川幕府の立場は“国家の反逆者”になってしまったのです。

新政府は戊辰戦争に勝利し、徳川幕府は消滅。こうして江戸時代から明治へと時代は変わりました。つまり、明治維新(幕末に起きた新しい日本をつくるという政治的革命)が終わった瞬間です。

  坂本龍馬と由利公正


画像:旧山町「莨屋旅館跡」(福井県福井市照手1-14-3)

大政奉還の直後、龍馬は福井に出向き、山町の「莨屋(たばこや)旅館」で由利と対談しました。

「三岡(由利)さん、幕府の時代が終わって新政府の時代がくるぜよ」

「坂本よ、俺にどうしろと言うのだ」

「福井藩の財政を立て直した経験を活かし、新政府の財政担当として手腕を発揮してほしい」

「俺に新政府で働けと?」

「そうじゃ!三岡さんなら新政府でも重宝される人材になるぜよ」

「薩長は受け入れてくれるかの?」

「三岡さんは新国家のために必要な人じゃ。薩長も、きっと分かってくれるぜよ」

龍馬が由利にこだわった理由は、単に財政の能力を評価しただけではありません。由利の実直な人柄や人間性、物事の本質を見抜く才覚や発想力に将来性を感じたからです。

財政と聞けばインテリなイメージですが、由利は武術に長けて破天荒で型破りな一面もあり、常識に縛られることなく本質を見抜き、発想や想像力をもって計画を実現する行動派でした。


画像:子爵由利公正伝より「若かりし頃の由利公正」(国立国会図書館)

大政奉還の直後に由利と会っていますが、これは二度目の再開。実は1853年に会っており、すでに意気投合した仲で、龍馬は由利の能力を高く評価していたのです。

由利は福井藩の財政を立て直すために藩札(各地の藩で発行する紙幣)を増刷し、率先して生糸生産者に貸し付け、資金を得た生産者は養蚕事業に注力し、生糸の生産量が膨れ上がりました。

増産した生糸を輸出し、外貨を得た福井藩。つまり、増刷した藩札のぶんだけ生糸の生産量も増え、生糸を藩の外で流通させることで外貨という利益を得たわけです。

藩の上層部に藩札の廃止を進言し、切手(全国で使える紙幣)の発行を提案しましたが却下され、引き続き藩札を増刷しますが藩札の価値が暴落してしまい、財政の立て直しは振り出しに・・・。

一方、龍馬は勝海舟から「福井に頭のいい面白い男がいる」と聞き、勝が責任者となって創設する幕府お抱えの海軍訓練所の資金を調達するために福井へと出向いて由利と初対面します。

資金援助を交渉する際、龍馬は「幕府の人間に限らず武士や農民など身分を問わず受け入れる海軍をつくる」と断言し、これに共感した由利は福井藩を説得し、龍馬に5000両を出資しました。

龍馬と由利の親交にはこうした親密な背景があり、どうしても龍馬はポテンシャルの高い由利を国家の基盤となる財政担当として新政府の一員にしたかったのです。

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