鎖国が解かれ明治維新へ
画像:明治初期画「井伊直弼」の油絵(豪徳寺)
秀吉のキリシタン追放(伴天連追放令)に始まり、江戸時代には島原の乱が火種となって幕府による徹底的なキリシタンの廃絶が行われ、異国の侵略から日本を守るために始まった「鎖国」という名の対外政策。
しかし、鎖国にも終わりがやってくるのです。1853年7月8日、黒船に乗ったペリーが浦賀沖(横須賀)に来航し、この時点を軸に日本は「幕末」へ突入します。
ペリーは幕府に対して「開国」を要求しましたが、とりあえず返事を保留にした幕府。しかし、5年後の7月29日、今度はアメリカ公使のタウンゼント・ハリスが戦艦に乗って下田(伊豆半島南部)に入港し、再び開国を迫ります。
幕府の大老・井伊直弼は鎖国派(攘夷派)の朝廷(孝明天皇)が開国に反対するなか、ほぼ独断でアメリカと「日米修好通商条約」を締結し、これによって事実上、鎖国が解かれることになるわけです。
アメリカに続き、フランスやイギリスとも条約を結び、幕末の日本には異国の鉄砲や大砲など武器が流れ込んできました。
1863年5月、攘夷派の長州藩は下関でアメリカとフランスの船を砲撃(下関事件)し、翌年には下関事件の報復として英・仏・米・蘭の連合艦隊が長州藩の戦艦を砲撃する下関戦争が勃発。
長州藩の怒りは鎖国を解いた幕府に向けられ、攘夷思想から「倒幕派」に変わると、土佐藩の仲介により薩長同盟を結んだ長州は1866年の第二次長州征伐で幕府軍に勝利し、徳川幕府は政権を朝廷に返還(大政奉還)。
こうして江戸時代は終わりを迎え、明治維新へ突入します。天皇を味方につけた薩摩と長州(新政府軍)は「王政復古」の名のもとに徳川幕府(旧幕府)と戦争し、この戊辰戦争で徳川を消滅させると明治時代の幕が開けました。
かなりザックリしていましたが、これらの流れが鎖国に関する出来事を軸にした幕末から明治維新までの流れです。幕府の対外政策と言われてみれば、幕府が対外的に始めた政策なので的外れではありませんが。
鎖国を始めたのも幕府、解いたのも幕府、因果なものですね。幕末の鎖国を知るうえで「攘夷」や「倒幕」などもキーポイントになるので、あわせて覚えておくと幕末の流れを理解しやすくなるでしょう。
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