油断、そして季節外れの大雪
当日は3月の下旬にも関わらず朝から季節外れの大雪が降り、彦根藩の護衛隊は雨天対応に備えて雨合羽(雨具)と刀を布で覆っていた。そのため、普段よりも身動きが取りづらかったのは間違いない。
さらに、この日は井伊直弼の彦根藩だけが参加していたわけではなく、尾張藩や紀伊藩などの行列も桜田門に向けて進行している。井伊の屋敷から桜田門までは400メートルほどで、短い距離ということと悪天候も重なり油断していた。
なおかつ、水戸浪士たちの作戦も巧妙であった。行列の前に水戸浪士の森五六郎が立ち塞がり、進路を妨げたことで護衛が前方に注意を向けた。
その一瞬の隙をつき、見物客に紛れ込んでいた水戸浪士14人が井伊の乗った駕籠(かご)を目掛けて斬りかかっている。駕籠を護衛していた武士も前方に気をとられてしまったのだ。
水戸藩士が行列前方に切りかかったため、警備の目が前方に引き付けられて、本来藩主の駕籠を警備せねばならない藩士が前方に移動を始めてしまったようだ。
20人の護衛隊だったが、行列が長かったことを考えると手薄な警備である。14人が一斉に飛び掛かれば散らばっている護衛隊では完全に防げないのである。
また、まさか大勢の町人がいる中で、さらに、ほかの藩の行列も参加するなかで朝から堂々と襲撃されるとは考えてもいなかったのだろう。しかも、桜田門は徳川家の本拠地である江戸城への入り口。
過去に、江戸城の近くで大名行列が襲われた事例はなく、幕府が警護を大動員させる指示もなかった。
油断、そして季節外れの大雪が味方し、巧妙な作戦によって暗殺が成功したと言えるだろう。
徳川幕府の終焉
画像:明治天皇 絵画と聖蹟「第2回 大政奉還」(明治神宮崇敬会)
かなり強引ではあったが幕府の威厳を守るために弾圧(安政の大獄)という手段まで使った井伊直弼は、弾圧への反発が膨れ上がった水戸浪士によって暗殺された。
幕府の重職である大老が江戸城の入口で大衆の面前で堂々と襲われたことは世間にも大きな影響を与え、幕府の権威を揺るがす事件になったことは言うまでもない。
1862年2月13日には幕府の老中・安藤信正が江戸城の坂下門外で水戸浪士に襲撃される事件(坂下門外の変)も起き、またしても幕府の信頼が損なわれる出来事となった。
1862年5月14日に薩摩藩主の島津久光が兵を率いて京都に到着し、今後の政権について天皇と密に会談し、井伊直弼によって政治から追放されていた徳川慶喜らは幕府に復帰することができた。
慶喜の復帰は島津斉彬が望んでいたことであったが、すでに日本の情勢は徳川将軍の一声で全てを動かせるような時代ではなく、薩長など討幕派や諸外国の圧力といった複雑な事情が絡み合っていた。
そして、時代は激動の幕末・明治維新へ向かって大きく動き出す。大政奉還で徳川幕府は政権を失い、王政復古の大号令が戊辰戦争のきっかけとなり、265年にわたり続いた徳川将軍は滅びた。
水戸市と彦根市と敦賀市
画像:みとちゃんお誕生日会に登場したヒコニャン(2017年2月17日水戸市HP)
桜田門は江戸城の内堀に建てられた門の一つで、当時のまま残っている。事件が起きた桜田門外は現在の警視庁がある場所で、井伊直弼が居住していた彦根藩上屋敷は憲政記念館になっている。
開国をめぐる幕府と尊攘派の思想をもつ水戸藩の確執から始まった因縁は安政の大獄、桜田門外の変で傷を深め、幕府の大老で彦根藩主の井伊直弼と水戸藩の水戸斉昭は歴史に名を残す犬猿の仲になった。
ところが、桜田門外の変から109年後の昭和45年、彦根と水戸は親善都市を締結し、正式に和解している。当時の彦根市長は井伊家の子孫で、直弼の孫の子供にあたる井伊直愛。
また、このとき仲介したのが敦賀市だが、これにも水戸と彦根の因果を物語る過去がある。井伊直弼を殺害されたことで怒った彦根藩の武士たちは幕府を味方につけ、水戸藩を徹底的に追い詰めた。
水戸藩は”天狗党”を結成し、天皇に助けを求めようと京都に向かったが彦根藩がルートを閉鎖してたどり着けず、敦賀市に後退して幕府に降伏。天狗党の幹部ら400人以上が処刑された。
敦賀市は昭和39年に水戸市と姉妹都市を結んでおり、その6年後に敦賀市が仲介をして彦根市と水戸市は親善都市を締結。なんとも不思議な因果で結ばれた3都市ではないだろうか。
桜田門外の変は幕府の威厳を揺るがす重要な出来事になったが、そうした視点も踏まえながら違った角度からも歴史をみると、また面白いかもしれない。
この記事へのコメントはありません。