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真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(後編)

幸村、最期の勇士


画像:真田幸村の像(上田駅)

大坂冬の陣のあと、あの手この手で"丸裸"にされた大阪城は、もはや機能を失っていました。徳川の大軍が攻め込めば、負け戦になることは一目瞭然。それでも豊臣勢は徳川軍と戦うわけです。

ほとんどの豊臣勢が退却し、主要な武将も討たれ、残すところわずかな戦力となった幸村は「赤備え(赤い鎧に身をまとった部隊)」を編成し、奇襲作戦による本陣への襲撃を敢行するのです。

狙うは天王寺口に本陣を構える家康ただ一人。幸村も奇襲隊に加わり、本陣に突撃。

序盤、幸村は松平忠直隊ら徳川軍と交戦していましたが、岡山口から駆けつけた井伊直孝の部隊(または藤堂高虎の部隊)の援軍によって隊を乱され、真田隊は多くの死傷者を出してしまいます。

散らばった真田隊は戦闘できる状態ではなく、やむなく幸村も退却。2013年に発見された松平文庫(福井県立図書館所蔵)の記録によると、幸村は撤退中に茶臼山で忠直の家臣・西尾仁左衛門に討ち取られたと言われています。

こうして48年(45年という説もある)の生涯に幕を閉じた幸村。幸村の息子・幸昌も、秀頼の後を追って大阪城にて自害。幸村の凄まじい戦いっぷりを見た島津家久は、以下のような書状を幸村の故郷へ送っています。

五月七日に、御所様の御陣へ真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。
真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。

現代風に要点を訳すと、「真田の兵は勇敢さも強さも日本一だった。昔から伝わる物語にすら真田の兵に匹敵する強者は登場しない」と幸村らが勇敢であったことを記し、真田氏の遺族に伝えたんですね。

幸村は戦国史を代表する人気武将なので、江戸時代の歌舞伎や芝居でも演じられ、それが後世に伝わって脚色されている点も多いですが、それでも史実に名を刻んだことは確か。

幸村の願い通り、大坂の陣は真田氏のプライドを守るに相応しい死に場所となったわけですね。

参考文献:大日本史料、若州聞書、松平文庫、薩藩旧記雑録

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