私たちには先祖がいる。その子孫として現代に生き、結婚して子供を産み、また次の子孫へと命をつないでいく。そうしたとき、もとをたどれば戦国武将を先祖にもつ子孫もいるわけだ。
たとえば、織田信長の次男である信雄の子孫にあたる元フィギュアスケート選手の織田信成や、戦国の荒くれ者として有名な松永久秀の子孫にあたる太田光代など戦国武将を先祖にもつ著名人も数多い。
そこで今回は、歴史的な出来事にスポットを当てて「戦国武将の子孫」に関する興味深い話をご紹介したいと思う。学校では教えてくれない歴史の側面に目を向けてみよう。
関ケ原の戦い
遡ること418年、岐阜県不破郡関ケ原町で歴史的な出来事が起きた。豊臣秀吉の死から2年、石田三成が指揮を執る西軍と徳川家康を大将とする東軍が天下争いで激突。
兵力は西軍85000人、東軍88000人と大差はなかったが、わずか1日で合戦は終わり、徳川家康の勝利で幕を閉じた。移行、江戸幕府が開かれ、戦国時代は終焉を迎えることとなった。
1600年10月21日、関ケ原の戦いである。
石田三成や大谷吉継、宇喜多秀家が激戦を繰り広げ序盤は西軍が有利に戦いを進めていたが、小早川秀秋の裏切りで合戦は東軍側に傾いていく。
さらに、毛利家を中心とした西軍の主力部隊が戦いに参加しなかったため、西軍は不利な状況に追い込まれ開戦から10時間も経たずに勝敗がついたと言われている。
そして、関ケ原の戦いから417年目の8月、戦いで火花を散らした武将たちの子孫が顔を合わせ、近況を語り合うという機会が週刊ポストの主催で行われた。
出席したメンバーは徳川家康の子孫「徳川家18代目当主の徳川恒孝」さん、西軍を裏切ったとされる小早川秀秋の子孫「小早川隆治」さん、石田三成の子孫「石田秀雄」さんと大谷吉継の子孫「大谷裕通」さんの4人。
2017年9月1日号の週刊ポストに掲載された記事をご紹介したいと思う。
有名武将の子孫はイベントで大忙し?
挨拶する小早川氏(左)と徳川氏(右)
石田
去年は大河ドラマ『真田丸』が話題になってゴールデンウィーク頃から、取材やイベントが立て込んで忙しかった。皆さんはどうでしたか?大谷
私も色んな雑誌からインタビューを受けた。今年はゆっくりできるかな、と思ったんだけど、今度は『関ヶ原』ですか。石田
私も、9月には『関ヶ原』の舞台挨拶に出なきゃならない。大谷
じゃあ大谷吉継役の大場泰正さんに会ったら、「小早川秀秋に裏切られて気の毒だったね」って言っておいてよ(笑)小早川
(苦笑いで沈黙)石田
他にも、三成の末裔や歴史愛好家で組織した「妙高山麓『グループ三成』」の代表として、慰霊祭や戦没者法要などのイベントに出席しています。大谷
先祖が偉人だと、子孫は大変。私の母が吉継を慰霊する関ヶ原の宝蔵寺をたまたま旅行で訪れた際に、住職さんに「実は子孫です」と明かしたところ、「じゃあ法要に出てください」となり、それから私が毎年その法要に出なきゃいけなくなった。徳川さんは世が世なら将軍の立場ですが、そういった苦労というのは?徳川
苦労というわけではありませんが、毎年4月17日と5月17日には、久能山東照宮と日光東照宮での例祭があるので会社を休まなければならなかったですね。小早川
徳川さんは学習院大学卒ですよね。私、学習院の後輩なんです。(副総理の)麻生太郎君と同期で。徳川
そうなんですか、奇遇ですね。私は初等科からずっと学習院です。あまりいい生徒ではございませんでしたが(笑)戦後第1期生で、当時は男だけでしたが、松平、松平、徳川、徳川と、徳川の家系だけで4人いたんです。でも私がいちばん仲が良かったのが、徳川幕府を倒した長州藩の子で、一番嫌なヤツが松平だったりしました(笑)実は私も生まれは「会津松平家」でしたが、中等科のときに徳川家の養子となりました。
生徒は私以外もみんな爵位を持つ家の子息ばかりだったので、特別扱いされたことはなかったですね。
小早川
私の学年も、そういった感じです。徳川
私たちよりも、むしろ先生方のほうがご苦労は多かったのではないでしょうか。中等科の歴史の授業で、戦国時代に入ると、いきなり教科書を何十ページも飛ばして、明治時代に飛んじゃったりする。私たちに気を遣ってくださっていたのでしょう。引用:2017年9月1日号 週刊ポスト
418年前、天下を争い戦った武将たち。関ケ原でキーマンの一人となった小早川秀秋。三成に命を捧げ運命を共にした大谷吉継。時代に選ばれ天下人となった徳川家康。
その4名の子孫が顔を合わせ冗談を交えながら近況報告をし合うなど、時の流れというものは実に不思議である。息子や孫、そのまた次の世代が、今後どのような顔合わせをするか楽しみだ。
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