猛将、知将。群雄割拠の戦国時代に「四天王」と呼ばれた武将たち
戦国時代、主君を支えた武将のなかには「四天王」と称される家臣団がおり、江戸幕府を開いた徳川家康しかり甲斐の虎・武田信玄や越後の龍・上杉謙信など、強力な家臣を従えていたことでも有名です。
武力が命運を分けていた時代ですから、家臣団の戦闘能力は主君にとって命綱。そこで今回は、徳川・上杉・武田に絞って、四天王に君臨した武将たちを紹介したいと思います。
徳川四天王
画像:左から酒井忠次(先求院)・本多忠勝(良玄寺)
二段目、左から榊原康政(文化庁)・井伊直政(彦根城博物館)
酒井忠次(1527年生まれ没年1596年)
忠次は家康の父・松平広忠の時代から仕え、幼い家康が人質として今川氏に送られるときも同行した一人。共に人質生活を過ごし、家康の身の回りの世話をしていたようです。
桶狭間の戦いで今川家が衰退すると岡崎に戻った家康は家督を継いで一国の主になりますが、このとき重職に就いたのが忠次です。駿河侵攻に備えて武田家と交渉したり、姉川の合戦や小牧長久手、三方ヶ原の戦いに従軍。
長篠の戦いでは夜襲をかけて長篠城を守るという大手柄を挙げ、信長から武功を称えられました。1585年、忠次は徳川家の筆頭家老となり、晩年は息子の家次に家督を譲りましたが、家康から冷遇を受けた家次をかばって徳川家と確執が生じたという話もありますね。
本多忠勝(1548年生まれ没年1610年)
家康に過ぎたるもの(家康にはもったいない)と称された武将で、57回の合戦で一度も傷を負わなかったという武勇の持ち主。そのため、武功にまつわる逸話が目立つ武将でもあります。
姉川の戦いで敵兵1万人を単騎(一人)で困惑させて戦況を有利に変えたとか、家康が堺を遊覧中、本能寺では明智光秀が謀反を起こし、逃げ場を失いかけた家康が自害しようとしますが思いとどまらせたのも忠勝とか。
また、小牧長久手の戦いでは敵方である豊臣軍の数万の大軍に500名を率いて乗り込み、「あっぱれ」と感心した秀吉は「忠勝には攻撃するな」と部下たちに命じたとか。家康からの信頼は厚く、生涯をかけて家康を支えた筋金入りの猛将です。
榊原康政(1548年生まれ没年1606年)
忠勝と同い年で、康政も徳川家を代表する武功の持ち主。ただ、忠勝の猛将ぶりがパンチ力ありすぎて目立ちませんが、これがまた結構な"策士"なんですよね。そのエピソードを垣間見れるのが小牧長久手での功績。
康政は秀吉を皮肉るような文言を書いた立札を掲げて豊臣軍を挑発。兵力で圧倒的に不利だった徳川軍でしたし、挑発し秀吉を怒らせ統制を乱して戦術に隙を生み出すことが狙いだったと言われています。案の定、秀吉はプツンときて戦況は互角に。
のちに徳川家は豊臣家に仕えますが、挑発行為について秀吉から怒られるどころか「なかなか康政は賢いやつだ」と褒められたとか。家康は忠次に対し、「軍事は康政に全て相談してくれ」と丸投げするほど戦の手腕を買われていました。
井伊直政(1561年生まれ没年1602年)
直政のスタート地点は家康の世話係。順調に出世していき、直政の代名詞ともいえる「赤備え」で徳川四天王の座に君臨することになります。信玄の病死を経て武田征伐(天目山の戦い)によって武田氏は消滅。
戦国最強と称された武田軍の山県昌景が率いる赤備えも武田氏の消滅で解散し、兵士たちは織田軍に捕らえられ牢人となりました。直政は家康に進言し、元武田の兵士を採用して新・赤備えを結成。
小牧長久手で赤備えを率いて戦い、その猛将ぶりから「赤鬼」と一目置かれる武将になったのです。ほか3人の武将は個人の戦闘力が高いのに対し、直政は統率力で猛将ぶりを発揮した武将といえるでしょう。
上杉四天王
画像:左から歌川国芳・画「宇佐美定満」「柿崎景家」「甘粕景持」(東京都立図書館)
宇佐美定満(1489年生まれ没年1564年あたり)
上杉家の記録には残っているものの、その生涯は謎が多く、死因も定かではありません。長尾景虎(のちの上杉謙信)に仕えたのは1543年以降とみられ、50歳を過ぎてからのこと。
また、定満の名前が知られるようになったのは江戸時代の初めで、紀州藩の軍事学者・宇佐美定祐の影響が強いようです。先祖の定満が「越後流」(上杉家の兵法など)を擁立し、謙信に軍師として仕えていたと文献に書き残したのです。
はたして定満が軍師であったかは謎ですが、いずれにしても四天王として戦国時代の文献に名が残る一人。多少の武功や活躍では上杉四天王の座に君臨するのは無理でしょうし、どれほどの人物であったか興味が沸きますよね。
直江景綱(1509年生まれ没年1577年)
直江氏は、もともと長尾氏と敵対関係だった飯沼氏に仕えていた武家で、長尾為景(上杉謙信の父)によって飯沼氏が消滅すると長尾氏に仕えました。為景に仕え、長尾晴景、上杉謙信)に仕えた武将です。
川中島の戦いで戦功を挙げた記録が残っていますが、戦場での腕っぷしの強さよりも領内の政治や外交において手腕を発揮した人物。とくに晩年は政務に力を入れて謙信を支えています。
景綱には跡継ぎがおらず養子の直江信綱が家督を継ぎますが信綱が病死すると、今度は上杉景勝が樋口兼村(長尾氏に仕えていた武家)の息子と信綱の妻・船を結婚(婿養子に)させ、直江家を存続させました。その婿養子が直江兼続です。
柿崎景家(1513年生まれ没年1574年)
柿崎氏は桓武平氏(大見氏)の血を引く一族とされ、上杉の家臣の中でも位の高い武家でした。ちなみに、平安時代に菅原道真の生まれ変わりと恐れられた平将門も桓武平氏の末裔。
豪族の一族の地を引いているせいか、景家についても上杉の家臣団きっての猛将で、第4次川中島の戦いでは八幡原に構えていた武田信玄の本陣を襲撃して混乱させるという武功を挙げていますね。
一方で、織田信長と内通していて謙信から自害を命じられたという話もあり、死因について謎が遺されている人物。しかし、確たる記録が残っていないため、今のところは風説に過ぎないようです。
甘粕景持(生年不明、没年1604年)
上杉四天王の中で最もミステリーな武将が景持。なぜ?って、「本当に謙信に仕えていたのか」それすらも疑う専門家がいるからです。とはいえ、四天王の一人として名が挙がっている人物、フィクションなわけがありません。
景持の功績を示す資料(上杉記録)には、第4次川中島の戦いで「殿」を任せられ、妻女山から下りる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げ、このとき武田の兵たちは景持を見て「謙信が自ら殿を務めている」と勘違いしたほど強かったとか。
武田家記録「甲陽軍鑑」でも、「侍大将のうち、上杉の甘粕は別格」と称えられているんですよ。謙信の死後は景勝に仕え、関ケ原の戦いでも西軍に加勢し、最期まで上杉家に忠義を尽くした"義の武将"だったのです。
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