政宗が秀吉の猿を調教した話
画像:伊達政宗公之騎馬像(青葉城-本丸会館)
秀吉は凶暴な猿を一匹飼っていました。秀吉のもとを各地の武将が訪ねると猿が歯をむき出して襲いかかり、それを見て笑うのが秀吉にとって何よりの楽しみ。
当然、この話は政宗も知っていました。ある日のこと、秀吉は政宗を呼び出します。しかし政宗は、大胆にも秀吉に断りの手紙を書いたのです。
「秀吉様、私は今、体調が優れませんのでそちらに伺うことができません。2~3日中には体調を整えて秀吉様のもとを訪ねますので、今回はお許しください」と。
さすがに体調が悪いとなれば秀吉も無理に来いとは言えず数日ほど待ちました。
許しを得た政宗は、猿の世話係を味方につけ、こっそりと自分のところへ猿を連れてこさせます。目的は、乱暴な猿を調教するためでした。
歯をむき出して襲いかかろうとする猿を何度も”鉄の扇子”で叩く政宗。次第に猿は政宗を恐れるようになり、大人しくなります。調教が済んだところで猿を秀吉の屋敷へ戻しました。
そして、再び秀吉から呼び出しの手紙が届きます。政宗が秀吉の屋敷へ着くと、あの猿が歯を見せてシャーシャー言いながら通路を塞いでいました。
その様子を隠れて見ている秀吉。猿に襲われ、驚く政宗の姿を楽しみにしていたのです。
ところが、政宗は猿の前を素通りして秀吉の部屋に入りました。猿は政宗が持っていた”鉄の扇子”を見ると震えながら怯え、背中を向けて静かになったのです。
尋常じゃない猿の怯え方を見た秀吉は、「政宗の独眼竜は凶暴な猿も黙らせてしまうのか」と感服したそうです。見事、政宗の作戦勝ち。上司の時間潰しに付き合うのも大変ですね。
吉継と三成の友情秘話
画像:決戦!関ヶ原「石田多加幸氏蔵-大谷吉継公之像」(講談社)
大谷吉継は「武士の子として滋賀に生まれた」とされていますが不明な点も多く、出生については定かではありません。19歳で秀吉に仕え、秀吉の死後は家康に仕えた武将です。
吉継の生涯において関わりの深い人物といえば石田三成。二人は”盟友”と称され、最期は関ケ原で共に散りました。吉継は19歳で三成と出会います。
互いに同じ故郷ということもあり、打ち解けるまでに時間はかかりませんでした。ある日、秀吉は豊臣家の家臣たちを招いて茶会を催します。
全国から大名や武家が集まり、吉継も招待を受け、三成と出席しました。しかし、吉継は乗り気ではありませんでした。当時、病気を患っていたからです。
吉継は25歳~27歳の頃、難病(ハンセン病もしくは梅毒、糖尿病による眼病と皮膚病の合併症という説もある。ただし、この時代では診断されていない)を患っています。
病状は悪化し、白い頭巾をかぶり、顔を隠して生活していた。頭や顔、手や足を白い布を巻きつけて素肌を見せないようにしていました。そのような姿で参加するのに抵抗があったのです。
茶会が始まると吉継の前に茶の入った茶碗が回ってきます。当時の作法として、一口だけ飲んで隣の人へ茶碗を渡すのが大人数の茶会ではポピュラーな方法でした。
吉継が茶碗に口を近づけた瞬間、顔から出た汁が一滴、茶碗の中に落ちてしまいます。それを見た出席者の全員が吉継に冷たい視線を注ぎました。
悔しさで体が震える吉継。しかし、三成だけは違いました。三成は、吉継の前に置かれた茶碗を手に取り、すべて飲み干してしたのです。
若い頃から同じ釜の飯を食った仲。三成は吉継の性格を知っていました。その場から直ぐに出ていきたかったはず・・・でも、秀吉の茶会で無礼な態度はとれない・・・。
周りの冷たい視線に耐えていた吉継の心情を察し、三成が示した最上の思いやりでした。この話は創作と言われていますが、そんな美談が誕生するほど二人の友情は強かったのでしょうね。
謙信の敵に塩を送った話
画像:上杉謙信公之像(春日山城)
腕っぷしが強く、颯爽と戦場を駆け抜け敵を蹴散らす姿から“越後の龍”と恐れられた上杉謙信。そんな彼と川中島で5度も戦い、決着がつかなかった男が武田信玄です。
いわば二人は永遠のライバル。しかし、二人の戦いも終わりを迎える日が来ます。信玄は三方ヶ原の戦いが終わった直後に持病が悪化し、しばらくして病死しました。
全国の大名や武将たちは「恐ろしい男がいなくなった」と喜びましたが、謙信は「尊敬に値する男を失った」とライバルの死を悲しんで涙を流したそうです。
謙信と信玄がバチバチに争っていた頃、こんな逸話があります。当時の信玄は謙信ばかりではなく各地の武将と揉め事を起こしていました。
その結果、信玄の領地である山梨に「塩」が入ってこなくなるという事態を起きてしまいます。対立する武将たちが結託し、山梨に塩を持ち込むの商人に禁止したからです。
山梨は山に囲まれた土地で、自分たちで塩を作り出すことは不可能でした。もちろん、地元住民の生活は苦しくなっていきます。それを知った謙信は、信玄に手紙を書きました。
「塩がなくなり、お困りと聞いた。そのような手段で嫌がらせするとは、武士の風上にも置けない奴らだ。それほど貴方を恐れているのだろう。塩が必要なら私が送る」と。
戦いは武将が勝手に始めたことであり、そのことで住民が苦しめられていることを残念に思った謙信が「敵である信玄に塩を送った」というエピソード。
塩を送ったあと、ちゃっかり代金を受け取ったという話もありますが、真意は定かではありません。いずれにしても、硬派な謙信らしい男気ある配慮だったのでしょうね。
三成と秀吉が出会った話
画像:秀吉と三成「出会いの像」(長浜駅前)
当時、滋賀は信長が秀吉に任せていた領地で、秀吉は長浜城で暮らしていました。
一方、石田三成は半士半農(半分武士で半分は農民)の家で産まれ、幼い頃に滋賀県米原市の観音寺で習字や算数を習いながら坊主の修行に励んでいました。
ある日、秀吉は趣味の鷹狩に出かけ、その帰り道、茶をもらうために観音寺へ立ち寄ります。秀吉が茶を頼むと、寺の坊主が支度を始めました。
すると三成は「私に茶を淹れさせてください」と頼み、秀吉に茶を差し出すことになります。農民から武将に昇進した秀吉に憧れを抱き、間近で接してみたかったからです。
まず、一杯目は「茶碗いっぱいに注いだぬるいお茶」を出し、二杯目は「半分の量で少し熱いお茶」を、三杯目は「小さな茶碗に少し注いだ熱いお茶」を差し出しました。
三成は、なぜ、このような方法で茶を出したのでしょうか。
喉の渇きを潤すために飲みやすい温度の茶を一杯目に出し、二杯目は一息ついてもらうために少し熱い茶を出し、最後は香りを楽しむために一口で飲める量の茶を用意したのです。
茶を三つの献立にして飲ませたことから「三献の茶」と呼ばれ、今も長浜と米原では語り継がれています。
この行き届いた心遣いに感心した秀吉は、三成を自分の世話役として手厚く迎えたそうです。
歴史を、もっと身近に
さて、戦国武将にまつわる逸話を7つ紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
歴史といえば、年号や古典的な言葉、場所や時代背景、起きた出来事や人物名など覚える要素が多く、複雑とか堅苦しいとか、そんなイメージをもつ人も少なくないと思います。
でも、今回ご紹介したようなエピソードを知ると、ちょっとは小難しいイメージがなくなりますよね。歴史が苦手な人は、そうした人物にまつわるエピソードから始めてみるといいかもしれませんね。
そして、もっとも大切なポイントは歴史を楽しむこと。ほかにも歴史上の人物に関する逸話や伝説は多いので、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。
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