注目の記事ピックアップ!

なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.1

  豊臣政権の崩壊

画像:秀吉と三成の像(長浜駅前)

秀吉が生きているときには機能した豊臣政権も、秀吉が病死して息子の秀頼が継ぐことになると崩壊の兆しを見せ始め、ついに内部分裂が勃発し、五大老の家康と五奉行の三成が対立。

「おい三成、わしは五大老の職を辞することに決めたわ」

「家康さん、それはないっすよ。不安定な今だからこそ頑張りましょうよ」

そんな感じで最初は些細な衝突でしたが、家康の行動はエスカレートし、秀吉が決めたルールを破ったり兵を集めて合戦の準備をしたり、いよいよ本格的な抗争へと発展するのです。

やがて関ケ原の戦いで衝突し、三成は敗戦。それ以前に豊臣政権は崩壊していたわけで、勢いにのって家康は大阪冬・夏の陣で豊臣家を滅ぼし、天下統一を果たすと江戸幕府が始まりました。

1598年9月18日・・・秀吉が病死
1599年3月29日・・・利家の死をきっかけに豊臣政権は完全に崩壊。三成と家康が対立
1600年5月26日・・・直江状が発端となり家康は会津征伐を決定。三成が家康に宣戦布告
1600年10月21日・・・本戦となる関ケ原で三成が敗戦
1603年3月24日・・・家康は征夷大将軍に就任し、江戸時代が始まった
1615年6月3日・・・大阪夏の陣で家康が豊臣家を滅ぼし、天下統一を果たす

「わしが死んでも豊臣政権があれば二代目の秀頼が跡を継いでも安心じゃ」という秀吉の願いは夢と消え、秀吉の死後から1年も経たずに豊臣政権は崩壊。その15年後には豊臣家も滅亡しました。

さて、ここまで豊臣政権の誕生から崩壊までを簡潔に紹介しましたが、Vol.2からは豊臣政権の崩壊後、関ケ原の戦いに命を捧げた武将たちをクローズアップしていきたいと思います。

Vol.2はこちら↓
なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.2

ページ:
1

2

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 戦国時代でスカウトしたい「島左近」

  2. 毛利家の知将「小早川隆景」の名言に学ぶトップリーダーの考え方

  3. 刀剣ファンなら知っておきたい少しマニアックな日本刀10選

  4. 卑弥呼(弥生)から天武天皇(飛鳥)までを5分で学ぶ<後編>

  5. 戦国の世は呪術が大切!占いを信奉した戦国大名5選

  6. ポップな謙信と上杉家17将が萌える!新潟県上越PRパンフレットがキュート!

  7. 桶狭間や長篠の戦いはフィクションだった?「織田信長」と「6月」と「雨」の不思議な関係

  8. 戦国史きっての"嫌われ者"石田三成は本当に嫌われていたのか?

  9. 大相撲は織田信長がルーツ?信長が初めて「相撲大会」を開いたって本当?

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

週間人気記事ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

全体人気記事ランキング

おすすめ記事

PAGE TOP