富田信高と嫁
画像:富田信高ト妻之錦絵(教導立志基31)
関ケ原の戦いに尽力した”影の貢献人”といえば「富田信高」。岐阜城を攻め落とされた西軍は、毛利秀元と吉川広家が三重に向かい、津城の攻撃を開始します。
津城の当主は富田信高でしたが、城内に常備していた兵は1700人。かたや西軍の軍勢は輝元が預けた2万の兵と長宗我部盛親など駆けつけた援軍も合わせて3万人を超えていました。
まず、西軍の安国寺恵瓊や長束正家、毛利勝永らが城の西側に火を放ち、砲撃を開始します。それを合図に秀元と広家が城内に攻め込み、次々と敵兵を斬り倒していきました。
死を覚悟し城外へ出て交戦する信高。あまりの軍勢に城内へ退却しようとしますが、辺りは敵兵で埋め尽くされて身動きの取れない状況。もはやこれまでか・・・と思ったそのとき。
馬に乗った兵が信高の周りにいる敵兵を7~8人ほど蹴散らし、槍を振り回しながら爽快に駆け抜けていきました。この兵の働きによって城内へ退却できた信高。
その勇敢な武将に信高は背後から声をかけました。
「ありがとう、助かった。お前の勇敢な姿、わしは忘れないぞ」と。
振り返った兵の顔を見て信高は驚きます。なんと、馬に乗って槍を振り回していた勇猛果敢な兵は自分の嫁だったのです。
それからも信高は必死に抗戦しましたが、あまりの軍勢の違いに力尽き信高は降伏。
勝利したとはいえ、西軍にとっては誤算だったはず。兵の数からして直ぐに攻め落とせると思っていたでしょうし、まさか苦戦を強いられるとは予想していなかったはず。なんせ1700人と3万人ですから・・・。
関ケ原の戦いが終わったあと、信高は大軍を相手に見事な働きをしたとして、家康に三重の伊勢2万石の領地を与えられています。さらに、愛媛の宇和島10万石を任せられ、宇和島藩の初代藩主になりました。
信高の功績の裏には、勇敢な嫁の”力添え”があったわけです。後世に創られた逸話と言われていますが、いずれにしても関ケ原の戦いで東軍に貢献した武将の一人であることは言うまでもありません。
関ケ原に散った大谷吉継
画像:太平記英雄傳「大谷吉継之錦絵」(東京都立図書館)
石田三成と関ケ原の戦い、そうなると忘れてはならない人物が大谷吉継。秀吉の死後、吉継は家康に仕えており、当然ながら関ケ原の戦いでも東軍に加勢する立場です。
しかし、西軍に加勢して関ケ原で戦死しています。これには、三成との友情があったからです。不器用で生真面目な三成には友と呼べるような信頼できる同僚がいませんでしたが、吉継だけは違いました。
というわけで今回は、ここまで。Vol.4でも関ケ原の戦いに命を捧げた武将たちの生き様にクローズアップしながらエピソードや人間ドラマを紹介したいと思います。
Vol.4、こちら↓
なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.4
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