そう考えると、長盛も関ケ原の戦いで苦悩した戦国武将の一人と言えそうです。
真田家の葛藤
画像: 真田昌幸之像-真田幸正氏所蔵(東京大学史料編纂所)
家康が会津征伐への参加を大名や武将に呼び掛けた際、真田家のもとにも招集の声がかかりました。真田家は武田信玄に仕えた一族で、秀吉の死後は徳川家に仕えていました。
この命令に真田昌幸は従い、本拠地の上田城を出て会津征伐へと出陣します。しかし、福島に向かう途中、栃木の宇都宮で徳川秀忠と合流する予定でしたが、昌幸は上田城へと引き返しました。
その理由は、「内府違いの条々」を見て気が変わったからです。これは、家康の不正を13項目で記した告発状で、五大老の有力者・毛利輝元と宇喜多秀家が筆頭となり作成した書面です。
<内府違いの条々に記された一部の内容>
・前田利家の死後、利家の息子(利長)の母親を人質にしている
・会津征伐は家康の私欲のもとに行われる理不尽な行動である
・自分の側近や可愛がっている家臣にだけ役職を与えている
・伏見城から豊臣家の関係者を追い出して徳川家が占拠した
・五奉行と五大老しか誓紙を取り交わさないというルールを破っている
・秀吉の家族を大阪城の西の丸から追い出し、自分の家族を住まわせている
・西の丸に天守を造設し、あたかも天下人を気取っている
・自分が可愛がっている武将の妻子だけを国許へ帰している
・身勝手な養子縁組を一度は取り消したが、またもや養子縁組のルールを破っている
・五奉行と五大老、全員のサインが必要な書類に1人でサインして物事を進めている
このように、秀吉様が定めた数々のルールを無視しているにも関わらず、会津征伐は秀頼様の許可なく独断で進めた出陣であるから、これ以上の暴走を容認するわけにはいかない。
よって、我々は家康に制裁を下すことを決めた。豊臣家に忠誠を誓う者は協力してほしい。大義は我らにある、そのことを胸に留め、皆様には良識ある行いと決断をお願いしたい。
要するに家康は好き勝手やっていて放っておくと危険といった内容で、文中には「家康への攻撃」を示す内容も記されており、この書面が西軍と東軍の衝突を決定づける出来事となりました。
すでに栃木に入っていた昌幸は2人の息子に相談します。兄の信幸と弟の信繁(幸村)に胸のうちを打ち明け、徳川家ではなく「豊臣家に加勢する意向」を示したのです。
「二人に相談がある。大阪では毛利輝元が家康の攻撃を計画しているそうだ。私は西軍に加勢する」
これを聞いた信繁は「親父についていくぜ」と一つ返事で乗り気でしたが、信幸は猛反対しました。「現状で真田家は徳川に仕える立場。家康に加勢するのが筋ではありませんか?」と。
「信幸よ、家康の身勝手な行動は容認できない。成敗するのも筋ではないか?」
「父上、それは主君を裏切るということ。もし西軍が負けたら真田家は滅びてしまうでしょう」
「ならば、私に良い考えがある」
真田昌幸の決断
画像:©信州Style「上田城跡公園」(長野県上田市二の丸)
shinshu-style.com/karuizawa-region/city-ueda/nn185/
西軍に加勢すると言い出した昌幸に猛反対の信幸。そこで昌幸は、ある決断を下します。それは、息子たちを驚かせる意外な“策”でした。そして、真田家の歴史に残る重大な決断となるのです。
果たして、昌幸が出した答えとは、どんなものだったのでしょうか。信幸の意見を尊重するのか、自分についてこいと強引に進めるのか、それとも・・・。さて、あなたが昌幸の立場なら、どんな決断を下しますか?
というわけで今回は、ここまで。
Vol.5では昌幸の決断と、引き続き、関ケ原に命を捧げた武将たちをクローズアップしていきましょう。
Vol.5はこちら↓
なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」
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