なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.5
画像: 真田昌幸之像-真田幸正氏所蔵(東京大学史料編纂所)
西軍に加勢すると言い出した昌幸に猛反対の信幸。そこで昌幸は、ある決断を下します。それは、息子たちを驚かせる意外な“策”でした。そして、真田家の歴史に残る重大な決断となるのです。
真田昌幸の決断
画像:武靖大明神-真田信之(真田宝物館)
信幸は、昌幸から決断を迫られます。
「信幸よ、私と信繫(幸村)は上田城に戻るが、お前は徳川秀忠と宇都宮で合流しなさい」
「父上、どういう意味ですか?」
「お前は家康に加勢して、私と信繫は豊臣に加勢する」
「それでは、父上と敵対することになります」
「そうだ、これからは敵になる。だがな、どちらが負けても真田家は生き残れる」
「父上、無茶を言わんでください」
「信幸よ、ポジティブに考えなさい。お前は生真面目すぎるから」
こうして昌幸と信繫は豊臣派となり、信幸は家康に仕えるという分裂の道を選んだ真田家。互いが衝突したのは1600年10月11日のこと。皮肉にも決戦の地は信幸の実家である上田城でした。
※信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で、昌幸の妻が石田三成の妻と姉妹の関係にあったことから真田家が分裂の道を選んだという説もあります。
徳川秀忠と信幸
画像:徳川秀忠之像(松平西福寺所蔵)
信幸と宇都宮で合流した秀忠は、昌幸と信繫がいないことに気づきます。
「ねぇ、信幸くん、お父さんと弟は?」
「それが・・・、豊臣に加勢すると言って上田城に帰りました」
「は?冗談でしょ」
「いえ、本当です。私は徳川に忠義を尽くしますので福島に向かいましょう」
「ちょっと待って。親父(家康)に報告しないとマズいわ」
この報告を受けた家康は秀忠に上田城への攻撃を命じます。当然の流れと言えるでしょうが、信幸の心中を考えると胸が痛みますね。なんとも言い難い運命です。
「信幸くん、君には悪いけど今から僕たちは昌幸と信繫の討伐に行くよ」
「福島には行かないのですか?」
「徳川軍も大阪に引き返すよ。三成が大阪城で戦の準備をしているらしいから」
「では、私たちは上田城で合戦を?」
「仕方ないけど、そうなるね。親父さんと弟が考え直すなら話は別だけど」
「承知しました。私は徳川に仕える身なので秀忠様の指示に従います」
大阪城にいるスパイ(増田長盛)から情報を得た家康は会津征伐を中断し、栃木から大阪へと進路を変更しました。一方、秀忠と信幸は家康の命令で上田城に向かいます。
昌幸の挑発
画像:©信州Style「上田城跡公園」(長野県上田市二の丸)
shinshu-style.com/karuizawa-region/city-ueda/nn185/
秀忠と信幸が率いる軍勢は3万8千人。かたや上田城の兵力は3千500人です。この勝負、誰がどう見ても徳川軍の圧勝で終わると思われました。
しかし、昌幸は戦国を生き抜いてきた合戦の名手。兵力が少ないとはいえ、知将として名の通った武将です。信繫に関しては、恐れ知らずで腕っぷしの強い勇猛果敢な武将。
決して油断できない相手であることは皆わかっていました。ただし、秀忠を除いては・・・。
上田城に到着した秀忠は、「昌幸を降伏させて城を明け渡すように伝えよ」と本多忠政、信幸に命じます。この要求を聞いた昌幸は、「ちょっと待って。城を出る準備をするから」と降伏の意思を示しました。
そして3日が経ち、我慢の限界に達した秀忠は早く城から出るよう昌幸に催促します。
「昌幸さん、そろそろ準備できましたか?」
「ごめんね待たせて。ようやく戦う準備ができたよ」
「えっ?あんた何を言っているの?」
「あっ、やっぱり降伏しないことにした。だから戦おう!」
つまり、ただの時間稼ぎだったわけです。挑発とも言える昌幸の態度に激怒した秀忠は上田城への総攻撃を決定し、榊原康政や忠政など徳川の家臣に出陣を命令します。
しかし、康政は「昌幸は無視して家康様の軍と合流しましょう」と、攻撃の中止を促しました。なぜなら、すでに3日も過ぎており、大阪に集まっている西軍と戦うためには秀忠の軍も貴重な兵力だったからです。
上田城で時間を無駄にするよりも、大阪に向かっている東軍と合流して西軍を壊滅させることが先と、康政は考えました。しかし、勝ち戦を確信していた秀忠は上田城への攻撃を開始します。
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