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なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」 Vol.7

  西軍に加勢した主な武将の末路


画像:吉継の怨念に怯える秀秋の錦絵(1868魁題百撰相-金吾中納言秀秋)

●石田三成・・・六条河原で処刑、斬首
●大谷吉継・・・関ケ原で自害
●島左近・・・戦死
●平塚為広・・・戦死
●宇喜多秀家・・・薩摩へ逃亡。57万石すべて没収
●長宗我部盛親・・・22万石すべて没収。大名から武家へ降格
●上杉景勝・・・120万石から30万石へ減封
●直江兼続・・・直江家が消滅し、上杉家と合併
●小西行長・・・六条河原で処刑、斬首
●毛利輝元・・・120万石から37万石へ減封
●安国寺恵瓊・・・六条河原で処刑、斬首
●真田昌幸、真田信繫(幸村)・・・4万石すべて没収。九度山で監禁生活
●長束正家・・・戦後、自害
●織田秀信・・・13万石すべて没収。大名から武家へ降格
●立花宗茂・・・13万石すべて没収。大名から武家へ降格
●増田長盛(スパイ)・・・20万石すべて没収。大名から武家へ降格
●佐竹義宣・・・54万石から20万石へ減封
●島津義弘・・・56万石すべて没収
●小早川秀包・・・13万石すべて没収
●戸田勝成・・・戦死
●糟屋武則・・・1万石すべて没収
●木下頼継・・・福井県に逃亡し、すぐに病死
●大谷吉治・・・福井県に逃亡し、大阪夏の陣で戦死
●毛利勝信・・・6万石すべて没収。熊本県に追放
●毛利秀元・・・20万石から6万石へ減封
●小早川秀秋・・・37万石から55万石に昇格
●吉川広家・・・12万石から3万石へ減封
●脇坂安治・・・3万石すべて没収
●小川祐忠・・・7万石すべて没収
●赤座直保・・・2万石すべて没収
●朽木元綱・・・2万石から1万石へ減封

  島津の退き口(捨て奸-すてがまり)


画像:島津義弘之肖像(尚古集成館-鹿児島市吉野町)

西軍のなかで最後まで奮闘した武将といえば島津義弘。宇喜多軍や石田軍が敗走すると、島津軍は東軍に包囲されます。しかし、島津は諦めることなく、なんとしてでも故郷の薩摩に帰還することを決意。

まず、島津軍は福島正則が率いる部隊に銃弾を放って強行突破に成功し、松平忠吉や井伊直正、本多忠勝の部隊を交わしながら家康の本陣まで近づきます。

家康に応戦するかと思いきや、伊勢街道を目掛けて逃走。東軍は島津軍を追撃しようとしましたが、すでに勝利が確定していた家康は追跡を中止させました。

この出来事は「島津の退き口」として語り継がれ、“捨て奸(すてがまり)“という戦法が名づけられました。

島津の退き口で島津軍は、後醍院宗重や木脇祐秀、川上忠兄などが活躍しましたが、一方で島津豊久や阿多盛淳、肝付兼護など有能な武将を失っています。

盛淳に至っては追ってくる東軍の注意を引き付けるために、義弘が秀吉から与えられた陣羽織を身につけ、義弘が死んだと思わせるように関ケ原の付近で切腹したそうです。

南宮山で立ち往生していた毛利も西軍の敗退を知ると逃走を決意。浅野幸長や池田輝政の攻撃を受けますが、長宗我部や長束、安国寺に助けられ伊勢街道から大阪へ戻ることができました。

長宗我部は地元の土佐へ、長束も故郷の水口を目指して逃亡しました。安国寺は捕らえられ、三成と共に六条河原で処刑。ほかの者たちも戦後に家康から処罰を言い渡され、それぞれ厳しい末路を辿っています。

  豊臣家の滅亡と徳川幕府の誕生


画像:豊臣秀頼之銅像(大阪市-玉造稲荷神社)

関ケ原の戦いで勝利した家康は豊臣家から独立し、1603年に伏見城の庭で後陽成天皇から征夷大将軍の職を授かります。つまり、徳川将軍=徳川幕府が誕生した瞬間でした。

事実上、天下統一を果たした家康でしたが、豊臣家2代目の秀頼を慕っている大名や武将も多く存在しており、もう二度と徳川に歯向かう者が出ないように豊臣家の権力を奪うことを計画します。

家康は「方広寺の鐘銘事件」「豊臣家に傾いている武将たちに汚名を着せる」などして秀頼を挑発し、この挑発に乗った豊臣家は大阪冬の陣で徳川軍と衝突。

冬の陣は和解に終わりましたが、1年後に起きた大坂夏の陣で豊臣家は合戦に負け、滅亡しました。真田信繫(幸村)が必死に徳川軍と交戦するも、用意周到な家康の策に敗れています。

参考:なんてこった!大坂の陣は徳川家康の「いちゃもん」から始まった?しかも2回も文句をつけた?(記事公開後リンクされます。)

秀頼と母の淀殿は大阪城で自害。完全に天下統一を果たした家康は、以後264年15代にわたり続く徳川将軍の基礎を築きました。


画像:秀頼と淀殿の慰霊碑・自害の場所(大阪城)

豊臣家が末永く続くように・・・と願って秀吉が組織化した豊臣政権は、秀吉の死後、ナンバー2の家康によって崩壊し、秀頼を守るという大義のもと三成が家康討伐を計画。

しかし、関ヶ原の戦いでは東軍が勝ち、さらに大坂夏の陣でも家康が勝利し、豊臣政権どころか豊臣家が消滅しました。この時点をもって、完全に戦国時代は終わりを迎えます。

さて、7回にわけて連載した「豊臣政権の崩壊」と「関ヶ原の戦い」ですが、家康が徳川幕府を築くまでに様々な人間ドラマと出来事が起き、多くの命が犠牲になっていることが分かります。

徳川幕府が始まるきっかけとなった歴史的な事件ということもあり、関ヶ原の戦いをテーマにした映画や小説など数多く制作されていますね。そうした作品も、ぜひ参考に鑑賞してみてはいかがでしょうか。

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