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【東京遷都の理由】なぜ「東京」が「日本の都」になった?(前編)

  大阪が都になる予定だった?


画像:明治維新後の大久保利通(近代名士-国立国会図書館)

大政奉還や戊辰戦争、王政復古の大号令や廃藩置県など、歴史的な出来事が重なった明治維新により江戸の情勢は不安定でした。そのため、江戸が都になる可能性は低かったようです。

そんな状況下において新政府の大久保利通は大阪の遷都を提案します。1868年(明治元年)に大阪遷都の建白書(意見を申し述べる書状)を明治天皇に提出。

しかし、都を大阪に移せば「京都を放棄した」と国民の反発を招く可能性があり、大阪遷都は却下されます。次に大久保は大阪への行幸を提案し、この意見については明治天皇が承諾しました。

一部の関係者は「大阪を見回ることで天皇が心変わりするのではないか」と反対する意見もありましたが、その心配とは裏腹に、ある出来事が成立したことで大阪が都になる可能性は低くなります。

天皇が大阪を行幸している時期、日本は戊辰戦争の真っ最中でした。戦況が有利な新政府は次の標的を江戸に定め、徳川家の拠点である江戸城への総攻撃を計画します。

この動きを察知した旧幕府の勝海舟は、旧知の仲である西郷隆盛に接触し、江戸への総攻撃を中止するように交渉を試み、2日間にわたり説得しました。

1868年4月5日と6日、勝は江戸の薩摩藩邸を訪れ、江戸城を空無条件で新政府に明け渡すことを約束し、この条件を承諾した西郷は江戸への総攻撃を中止。

勝は、「江戸で戦争が起きれば町は火の海となり、市民も巻き添えになって多くの犠牲者が出るから悲劇を回避したい」と西郷を説得し、筋の通った勝の考えに感銘を受けたそうです。

5月3日に江戸城は約束通り引き渡され、争うことなく一滴も血を流さずに開城されたことから「江戸無血開城」として世間から注目を集め、江戸に対する関心が高まっていきます。

そして、もう一つの要因が後押しし、江戸の遷都が現実味を帯びてくるのです。

  前島密による「江戸遷都」の提案


画像:前島密之写(華族画報社-©1913華族画報)

もう一つの要因とは、開成所の前島密が提案した江戸遷都の建白書。当時、前島は1963年に幕府が設立した洋学所(開成所)で教授を務めており、洋学の知識や外国語などを教えていました。

※洋学所・・・オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語などの外国語、天文、地理、数学などの科学、活字を書く訓練など学ぶための塾

また、前島は、のちに日本の郵便制度を創設した人物としても有名な人物です。その前島が、新政府の大久保に対し、江戸に都を移すことを推奨する建白書を提出しました。

大阪は安定し、すでに繁栄している地域であり、政治の中心地(都)にしなくても機能する仕組みが出来上がっている。一方、江戸は生まれたての赤ん坊のように未熟な状態。
しかし、大都市になるポテンシャルを秘めており、江戸を都にしないと今のままでは市民が離れていってしまう。そうなると機能しなくなり、江戸の町は廃れていくだろう。
発達途上の江戸に都を移し、政治の中心地として確立させることで日本全体の利益につながると考える。大阪遷都ではなく、江戸遷都の実現に向けて尽力願いたい。

このような内容が記されていましたが、前島の提案に可能性を見出した大久保は、大阪遷都から江戸遷都へと考え方が傾きます。次第に、江戸遷都に同調する関係者も増えました。

ところが、もう一つの案が政府の内部で浮上し、江戸に都を移すという計画は一時的に休止します。その案とは、それまでの常識を覆す大胆で意外な計画でした・・・。

後編は、こちら↓
遷都1426年の歴史を学ぶ!なぜ「東京」が「日本の都」になった?(後編)

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