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信長公記・首巻その11 「美濃統一と上洛」

美濃統一の完成


画像:岐阜城(岐阜市金華山)

1566年5月の上旬(永禄9年)、信長は小牧山城を出発して再び木曽川を渡り、各務野(岐阜県各務原市)に侵攻した。斎藤龍興も井口(または井ノ口。稲葉山城の城下)を出て新加納(岐阜県各務原市)に陣を構えた。

新加納は立地が悪くて思うように進軍できないと予想した信長は突撃を断念し、各務野に帰陣した。

1567年9月(永禄10年)、信長に転機が訪れた。

状勢に一大転機が訪れた。斎藤軍の配下である稲葉一鉄(稲葉良通)、氏家直元(氏家ト全)、安藤守就の3名が「織田家の配下になりたい」と申し入れてきたのである。

下心なき忠義の証拠に、人質を預けると申し出て、これを信長は承諾した。そして、村井貞勝と島田秀順が人質を預かるために西美濃へ出向いた。

ところが、信長は人質の到着も待たずに軍を率いて出陣し、稲葉山(現在の金華山)の南の麓にある瑞龍寺山へ進軍した。突然の襲撃に慌てふためく稲葉山の城下に火をつけ、あっという間に稲葉山城は裸の城となった。

その後、信長は稲葉山城を鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣)で囲んだ。そこへ一鉄、直元、守就の3名が驚いた様子で駆け付け、深々と挨拶した。

10月、ついに斎藤龍興は力尽き、降伏して伊勢長島(三重県桑名市長島町)へと逃げていった。美濃の支配者であった斎藤家を追放したことで、信長の美濃統一が完成した。

美濃侵攻の拠点となった小牧山城は廃城となり、信長は稲葉山城へと移った。そして、稲葉山の城下は井口(または井ノ口)という地名だったが、これを岐阜へと改名して稲葉山城の改修を行い、岐阜城へと名を改めた。

上洛

三好三人衆と松永久秀の手によって京都を追放され奈良に幽閉された足利義昭は幕臣の細川藤孝、和田惟政らに救出されて近江国(滋賀県長浜市)の六角承禎のもとへ逃れていた。

しかし、承禎と不和になり、今度は越前国(福井県敦賀市)へ出向いて朝倉義景を頼った。義昭は義景に上洛を促したが、義景は一向に動こうとしなかった。

煮え切らない義景に見切りをつけた義昭は、尾張と美濃を統一した信長に関心を向け、細川藤孝・和田惟政を信長のもとへ行かせ、上洛に協力してほしい旨を伝えた。

信長は快諾し、1568年8月(永禄11年)に義昭は岐阜に入った。そして、信長の尽力(三好三人衆と松永久秀を京都から追放した)あって義昭は11月7日に征夷大将軍となり、足利将軍家15代目の将軍となる。

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