信長公記・首巻その4 「織田家の内部抗争(織田信友の謀反)」
画像:清洲城(愛知県清須市朝日城屋敷)
織田信友の死
織田大和守家(清洲織田家。当主は織田信友)の家臣・坂井大膳は安食・成願寺の戦いで多くの武将を失い、もはや窮地の状況にあり、劣勢を打開するために織田信光(信長の父・織田信秀の弟)を味方につけようとした。
信友と手を組んで守護代を務めるよう信光に提案したところ、これを信光は了承した。1555年5月7日(弘治元年)、信光は大膳の招きによって那古野から清洲城に移った。
しかし、信光の動きは信長と計画した企みであり、信友や大膳には、わざと寝返ったように見せていたのである。つまり、信光を清洲城に潜伏させるために信長か仕組んだ謀略だった。
5月10日、大膳は信光のもとへ礼に向かう途中、信光の軍勢が装備して待ち伏せしているとの報告を受けた。危機を察した大膳は清洲城から抜け出して駿河(静岡県)へ逃亡し、今川義元に助けを求めた。
一方、信友は信光の軍勢によって攻め追いやられ、自害し、織田大和守家は滅びた。清洲城は信長の手に渡り、信光は那古野城に帰還した。こうして清洲城の当主は織田信長となった。
1556年1月7日、信光が信友の家臣・坂井某に殺害されるという事件が起こる。報復と考えられる。
また、守山城主の織田信次(信長の父・信秀の弟)が庄内川で魚釣りをしていたろころ、信長と信行の弟である秀孝が馬に乗って通りかかった。これを見た信次の家来が勘違いして秀孝に矢を放ち、秀孝は落馬して命を落としてしまった。
信次は落馬した者が信長の弟と知り、身の破滅を感じて守山城には帰らず逃げ去って身を隠した。末森城の信行は秘宝を聞いて立腹し、守山城に攻め入って城下を焼き払った。
信長も秀孝の死を聞いたが、「俺の弟ともあろう者が護衛もつけずに一人で出歩くとは無能にもほどがある。たとえ命が助かっていたとしても俺が罰を下していた」と言い放った。
稲生の合戦
信長は朝から夕まで馬に乗り、その乗馬ぶりは荒々しかった。付き添いや護衛の家来たちは信長のように乗馬の技術が優れていなかったので、お供するたびに馬が疲れ、早死にする馬もいた。
信行の報復によって守山城下は焼失したが、守山城(名古屋市守山区)には信次の家臣らが立て籠もっていた。信長は信長の家臣・飯尾近江守(飯尾定宗)らに指示して守山城を包囲させた。
さらに信行は家臣の柴田勝家を向かわせ、木ケ崎(名古屋市東区矢田)に配備させた。信行の家臣・佐久間信盛が信次の家臣らを説得し、信長の弟・秀俊(織田信時)を新しい城主にするという条件で開城が成立する。
この功績を認められた佐久間は守山領内に100石を与えられた。
清洲城に信長が入城したことで織田家は落ち着きを見せ始めていたが、織田家の宿老・林秀貞と弟の林美作が信行の家臣・柴田勝家と手を組んで信長への謀反を企んでいたのである。
信長を追放し、信友を織田家の当主にしようと考えていた。
1556年7月3日(弘治2年)、信長は秀俊(信時)を連れて林秀貞の屋敷を訪ねた。美作は、この機会に信長の殺害を考えたが、秀貞は無事に信長を帰し、一両日(翌日または翌々日)に正式に信長へ宣戦布告した。
秀貞・美作の呼び変えに応えて荒子城、米野城、大脇城の当主が信長に敵対した。一方、守山城では秀俊(信時)と家老が不仲(秀俊が独断で若い衆を家臣にしたことが原因)になり、秀俊は殺害されてしまう。
この報告を受けた信長は逃亡中で浪人の身であった信次を呼び戻し、守山城主として復活させた。
画像:©2014フジテレビ「信長協奏曲」の織田信行
9月、信長と信行の不仲は深まっており、ついに信行は篠木(春日井市篠木町)を占領して砦を築いた。対して信長は9月25日、家臣の佐久間盛重に指示して名塚(名古屋市西区)に砦を築かせた。
もともと盛重は信行に仕えていたが、信長が清洲城の当主となってからは信長の家臣となっている。信行の兵は柴田勝家の部隊が1000、林(秀貞・美作)の兵が700。
27日に信長も清洲城を出発し、庄内川を越えた。両軍は稲生(名古屋市西区稲生町)で臨戦態勢となり、清洲から進軍してきた信長と東南から進軍した信行の軍勢が衝突した。
昼過ぎ、信長は勝家の軍勢と対戦し、信長の家臣・山田治部左衛門が戦死。勝家の軍勢は怒涛の勢いで攻めかかってきたが、織田信房 (造酒丞)らが奮戦して互角の戦いを繰り広げた。
すると信長が突然、敵兵たちに対して大声を発したのである。もとはといえば、戦っているのは織田家の家臣同志。しかも、信長は当主である。信長の大声に対して信行の兵たちは戦意が弱まってしまい、一気に信長は優勢となった。
その隙に南へ進軍し、林美作の陣を強襲。信長は美作に襲い掛かって討ち取った。信行の軍勢は窮地に追いやられ、末森城(末盛城。名古屋市千種区)と那古野城に分かれて撤退し、立て籠もった。
信長の軍勢が挙げた首級は450を超え、信長は末森城下と那古野城下を焼き払って清洲城に帰還した。
このとき、信長の母・土田御前(信友や信行の母でもある)は信行と末森城で暮らしており、土田御前は信長に謝罪を述べて信行の赦免(罪を許されること)を求めた。
信長は土田御前の願いを聞き入れ、信行をはじめ柴田勝家や林秀貞に対しても赦免した。
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