信長公記・1巻その1 「足利義昭の保護・上洛の準備」
画像:足利義輝の肖像(国立歴史民俗博物館)
足利義輝の死(永禄の変)
1565年6月17日(永禄8年)、足利義輝が三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀の手によって二条城で暗殺され、このとき、摂津晴門の息子・糸千代丸や進士晴舎など多くの幕臣も一緒に亡くなっている。
また、義輝の生母である慶寿院も義輝の後を追って自害した。 天下の実権(三好政権)を握っていた三好氏は、義輝が三好氏の失脚を望んでいることに前々から気づいていた。
義輝は三好長慶の死を好機と考え、親密な関係にあった上杉謙信、武田信玄、朝倉義景など有力大名に上洛を呼びかけて、幕府の再建を実行すべく目立った活動を行なうようになっていたのだ。
これに対抗すべく、長慶の死後(1564年8月10日)、三好氏の家督は長慶の息子(養子)の三好義継(三好氏の最後の当主)が継いだが、まだ義継が若かったため、義継の後見人である長逸、政康、友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権を樹立した。
6月17日の早朝、三好衆は清水寺に参拝に行くという名目で京都に人数を集め、義輝の座所(住まい)である二条城を襲撃した。義輝は公方御物(足利家が所有していた名刀の総称)の刀で奮戦したが、多勢の前に力尽き、屋敷に火を放って自害した。
義輝の家来・美濃屋小四郎は隙を見て三好衆の平田和泉を討ち取ったが力尽き、自害した。まさに晴天の霹靂であり、京都の人々は義輝の死を悲しんだという。
足利義昭の逃亡
義輝の弟・足利義昭は「出家して奈良の興福寺を相続するなら危害は加えない」という三好衆の言葉を信じ、一乗院門にて幽閉されていた。しかし、身の危険を感じた義昭は1566年1月(永禄8年12月)に幕臣の細川藤孝、和田惟政らの助けを借りて奈良から脱出した。
義昭は幕臣に護衛されながら伊賀(三重県)、甲賀(滋賀県)を下り、江州矢嶋(滋賀県守山市)へ出て六角承禎(六角義賢)を頼って避難した。
六角は尽力したが義昭の擁護に危惧を感じ、義昭の上洛の要請(幕府を再建したいという要望)には応じなかった。義昭は近江を出て、今度は越前国(福井)の朝倉景義を頼った。
このとき、永禄10年(1568年)であり、義昭が元服し、覚慶から義昭へと名を改めた年でもある。
朝倉家は当主の朝倉義景の父・孝景が足利将軍家から相伴衆(室町幕府の役職)に相当する地位を与えられ、越前国の支配を認められていた。しかし、その恩を朝倉家は忘れ、義昭の要請に力を貸そうとはしなかった。
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