米沢と上杉謙信
画像:武田信玄・上杉謙信一騎討之像(八幡原史跡公園)
越後の守護・長尾為影の四男として春日山城で生まれた謙信は幼名を虎千代と言い、14歳で「景虎」の名を与えられると、初めての合戦に出陣。栃尾城の戦いで無事に勝利をおさめています。
上杉の性になったのは32歳のときで、越後を統一したのちに上杉憲政から家督を譲り受け、関東管領に就任。景虎から「政虎」へ、翌年には「輝虎」へと改めました。
そして、上杉謙信と呼ばれるようになったのは41歳の冬。毘沙門天を崇拝していた輝虎が高野山で出家した際に称した法名(戒名)が「謙信」ですから、随分と後になってからの名前なんです。
「実は女性だったのでは?」という説が浮上するほど謙信はミステリアスなタイプだったそうで、たとえば、一度も結婚しなかったことでも有名な武将です。一説によると、仏教を信仰していたことが理由とか。
また、天下統一や縄張り争いに興味がなく、基本的には喧嘩を好まない平和主義者でした。しかし、正義感が強いため、助けを求められると恐ろしいほど凶暴な武将に変貌します。
川中島の戦いも、ことの発端は村上義清に助けを求められたことが原因。「景虎くん、武田信玄から攻撃を受けて城を追い出されてしまった。力を貸してくれませんか」と。
頼りにされると、どうしても放っておけない性格。謙信が生涯において戦った合戦は、7割が人助けのためと言っても大げさではありません。義理人情に厚く、曲がったことが嫌いな男だったようです。
さて、越後で生まれ越後で病死した謙信ですが、死後は景勝が上杉家を継ぎ、徳川の時代がくると新潟から山形の米沢へ移動を命じられます(1601年)。このとき、謙信の遺品や遺骨も米沢へ移されました。
米沢城の敷地内に御堂(寺)を設け、1612年には祠堂を増設し、中央に謙信の遺骨を祀り、正面から見て左に善光寺如来尊の像、右に毘沙門天の木造を安置しました。
1871年に祠堂を改装し、上杉神社に改名しています。1876年5月に米沢城が解体されると、謙信の遺骨は上杉家御廟所に移葬され、1984には国の指定史跡に認定されました。
上杉神社を訪ねて
画像:上杉神社
現在、米沢城の跡地は松が岬公園になっており、その中央に上杉神社があります。毎年4月29日~5月3日にかけて「米沢上杉まつり」が開催されており、川中島の戦いを再現した模擬合戦は圧巻です。
上杉と武田の両軍700名が激突し、迫力ある火縄銃の鉄砲隊や騎馬隊など、まるで戦国時代にタイムスリップしたような光景は上杉まつりの見どころとなっています。
また、武禘式では実際に謙信が出陣前に行っていた勝利祈願を再現し、静寂した闇の中で燃え上がる炎を見つめると、合戦前の緊張感が伝わってくるような不思議な感覚になりますね。
上杉謙信公はその生涯において、70余度ほど自ら陣頭に立って戦ったと伝えられています。部下の諸将に命じて出陣させたものを加えれば数え切れないほどです。
その出陣の度に武禘式と称する儀式を行い、神仏に戦勝を祈りました。この儀式は神仏に代わって不正不義を討つという強い信念に基いたものです。
当日は、武禘式保存会の会員によって再現されます。
赤々と燃えるかがり火の中で、五沾水(ごてんすい)の儀・軍神勧請の儀などが約1時間にわたって荘厳にとり行われ、つめかけた観客をしばし戦国の世へ誘います。
参考:戦は己の欲のためにあらず「武禘式」(上杉まつり実行委員会)
●4月29日・・・開幕パレード(開幕祭)
●5月2日・・・武禘式(ぶていしき)
●5月3日・・・上杉軍の行列(甲冑行列)
●5月3日・・・川中島の戦い模擬合戦(再現)
松が岬公園から徒歩15分(およそ1.2キロ)の場所にある上杉家御廟所には、謙信をはじめ、歴代の米沢藩主の遺骨が埋葬されており、初代藩主の景勝から11代目の斉定まで。
敷地内には杉の木が多く、樹齢400年を超える老杉もあり、歴代藩主の廟所(墓)が一か所に置かれているのは全国でも珍しく、1984年(昭和59年)に国の指定史跡として登録されました。
また、松が岬公園にある上杉博物館には、織田信長が謙信に贈ったとされる「上杉本洛中洛外図屏風」が展示されており、こちらは国宝に指定されています。
<上杉神社(米沢城跡)>
住所:山形県米沢市丸の内1-4-13
uesugi.yonezawa-matsuri.jp/
<上杉家御廟所>
住所:山形県米沢市御廟1-5-30
<伝国の杜 上杉博物館>
住所:山形県米沢市丸の内1-2-1
謙信と越後上布
画像:越後上布(株式会社丸絲)
軍神や龍などの異名で猛将と恐れられた謙信でしたが、一方では商売のセンスもあったようです。そもそも、資金がなければ戦もできませんし、収入源がなければ家臣たちを食わせていくこともできませんでした。
越後は米どころだから米を売っていた、佐渡の金山と銀山が収入源になっていた、どちらも答えはNOです。まず、戦国時代の越後は、それほど米の収穫量はありません。
そして、佐渡の金山と銀山が上杉家の所有になるのは上杉家2代目の景勝になってからです。では、謙信は、どのようにして軍資金や組織の運営費を調達していたのでしょうか。
謙信の時代、越後は米や作物を育てる田畑よりも、麻布(麻糸で織った布)の原料「カラムシ(イラクサ科の植物)」を栽培する畑のほうが圧倒的に多かったのです。
カラムシの表皮から採れる青苧(あおそ)という繊維で麻糸を生成し、その麻糸を織った布を「越後上布」と言いますが、木綿が一般流通していないこの時代において、越後上布は貴重なものでした。
上杉房定が越後を治めていた時代には、幕府の職員が着用する素襖(すおう)の素材として越後上布が採用されています。つまり、超がつくほどの高級品で、限られた人しか扱えない布でした。
そこで謙信はカラムシの栽培を強化し、越後上布をブランド化するために専売制を用いています。専売制とは、生産・流通・販売などを全面的に管理下に置き、そこから発生する利益を独占する制度。
独占的に管理することで品質保証や安全管理、公衆衛生上の責任を全て負うという側面もあります。
特定の商品で、なおかつ特定の地域でしか生産ができず、さらに生産者が限定的であることが重要であり、全国的に拡散しているよりも産地が限定されている商品に対して用いられることが多い制度です。
●特定の商品・・・青苧を原料とする越後上布
●特定の生産地・・・越後国(謙信の領土内)
●限定の生産者・・・越後国の女性
※越後上布とは、越後で織った上等な布という意味
謙信は越後の女性たちに機織りの仕事を奨励し、完成した布を謙信が自ら京都や大阪に持ち込んでアピールし、朝廷(天皇)に越後上布を献上してお墨付きをもらったり、セールスマン顔負けの働きぶり。
高級品なので、もちろん客もセレブが相手。次第に大名や武家、問屋や商人からの注文が増えるようになり、越後上布の専売と売り込みは大成功しました。
注文が入れば女性たちが機を織り、そのためには原料の青苧が必要になるので積極的に栽培を強化。栽培→生産→販売といった感じで地域産業として上手く循環し、謙信は財源を確保しました。
越後上布の生産は2代目の景勝にも受け継がれ、上杉家の家臣・直江兼続は農民に向けて「農業が暇な時期には副業で麻布を生産しよう」と地域活性に貢献しています。
越後上布は現在でも流通しており、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されました。合戦ばかりかと思いきや、しっかり地元のために産業の活性にも謙信は力を注いでいたわけですね。
武田神社と上杉神社
画像:武田信玄・上杉謙信一騎討之像(八幡原史跡公園)
今回は、信玄と謙信に由縁のある神社を紹介しましたが、二人とも合戦の名手というだけでなく、それぞれ地域活性に尽力した武将としても歴史に名を残す偉人です。
武田神社には信玄の魂が、上杉神社には謙信の魂が眠っています。どちらも年に一度、例祭が行われているので、歴史ファンなら一度は訪れておきたい名所ではないでしょうか。
<武田神社 例大祭>
山梨県甲府市古府中町2611
http://www.takedajinja.or.jp/3_seasons.html
<米沢上杉まつり>
山形県米沢市相生町2丁目 松川(最上川)河川敷
uesugi.yonezawa-matsuri.jp/about/
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