<和解の条件>
・大阪城の外堀を埋める
・大坂城の「二の丸」「三の丸」を壊す
・豊臣家の領地は没収しない、今のままでOK
・豊臣秀頼と淀殿の身の安全を約束する
・豊臣軍に味方した者たちを罰しない
12月19日に秀頼は条件を呑み、和解が成立した。早速、外堀と二の丸・三の丸の撤去に取り掛かった家康。「費用がかかるから徳川家で工事するよ」と言い、作業を進めていく。
ところが、家康は外堀だけではなく内堀も埋め、大阪城は”剥き出し”の状態となった。これこそが家康の狙い。大阪城を無防備にすれば攻めやすくなり、短期戦で決着がつくと考えたのだ。
これを知った豊臣家は「約束が違う!」と抗議するが、家康は「どっちも埋めるって言ったよ」と知らんぷり。謝るどころか家康は、逆に秀頼を追い詰める。
「おい、家康!約束が違うだろ?」
「そんなこと言った?俺は外も内も埋めるって言ったよ」
「言ってねーよ!すぐに元に戻せ」
「秀頼、お前のほうこそ家来たちが大阪で変なことしてるみたいじゃないか」
「なんの話だよ?」
「勝手に内堀を修復しようとしたり京都の町や伏見城に放火しようと計画してるだろ?」
「・・・内堀はね。でも、放火なんか、初めて聞いたぞ」
「じゃ、家来たちが勝手にやってるんだな。お前、聞かされてないだけだよ」
「おい、おっさん。いい加減なこと言うなよ」
「じゃ、大阪を出ていきなさい。そして、豊臣軍の家臣たちを差し出しなさい。こっちで処罰するから」
「ふざけるな!そんな要求、筋が通ってねーよ」
「んー、話にならん。今度こそ、潰してやるわ。合戦の準備しとけよ」
豊臣家は徳川家と戦う意向を示し、1615年5月6日に大阪夏の陣が始まる。豊臣軍は必死に応戦したが、丸裸にされた大阪城は簡単に攻め込まれ、5月7日に合戦は徳川軍の勝利で幕を閉じた。
秀頼と淀殿は大阪城で自害し、死去。大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康は天下統一を果たし、以後264年15代にわたり続く徳川幕府の基礎を築いた。
方広寺の釣鐘、伏見城への放火、2回の”いちゃもん”で豊臣家を挑発し、合戦の理由をつくった家康。とはいえ、この話には諸説あるが、いずれにしても家康が策略家であることは言うまでもないだろう。
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