注目の記事ピックアップ!

【加賀百万石】前田利家の生涯と徳川家康の関係

前田利家、豊臣秀吉に仕える

信長亡き後、織田家の家臣はリーダー争いで険悪なムードが流れ出す。

織田家の跡取り争いは織田信孝(信長の三男)と三法師(信長の孫)との家督争いだったが、これは表面上のことで実際は柴田勝家と羽柴秀吉とのリーダー争いであった。

どちらが織田家の実権を握るか・・。世に言う、「清須会議」である。


画像:©2013映画「清須会議」製作委員会

利家はどちらに付くのか、と難しい決断を強いられた。当時、利家の上司は勝家。でも、秀吉とは親友。忠誠を尽くすか、それとも友情をとるか・・・利家は葛藤した。

そして、利家は決断する。「すみません勝家さん。豊臣家で働きます」と。賤ケ岳の戦い(1583年)では勝家と一緒に戦ったが、途中で戦線を離脱することで秀吉に勝利をもたらせた。

利家の心中は複雑だっただろう。その後、戦に敗れた勝家は利家の城を訪ね、メシを食いながら「今回の戦は大変だったね~」と穏やかに世間話したという。

利家が裏切った事には腹を立てておらず、むしろ何事もなかったかのように勝家は自分の城へ帰っていった。つまり、利家に”別れの挨拶”をするために訪ねてきたのだった。

そして、秀吉に仕えることとなった利家。一息つく間もなく、今度は秀吉と家康が対立する。「秀吉の独走を許さない・・・。思うようにさせてたまるか!」と。

1584年に小牧長久手の戦いが勃発。小牧長久手の戦いは尾張周辺で合戦が行われたが、利家がいる北陸でも便乗する戦が起こっている。

徳川軍の佐々成正が利家の末森城に奇襲をかけ、佐々軍1万5000に対して、利家軍は2500の兵。

利家は持ちこたえ、秀吉の援軍が到着すると無事に佐々軍を退治する事ができた。この難局を乗り越えた利家は、さらなる領地の加増を得て90万石にまで出世する。

秀吉から石川県と富山県を与えられた利家は、ここに加賀100万石の礎を築いた。

ページ:
1

2

3
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 喧嘩両成敗だけじゃない?今ではあり得ない戦国大名の分国法が面白い!

  2. 真の傾奇者!己の道を傾奇通した「水野勝成」の波乱万丈な生涯

  3. 弥生時代は諸説だらけ?卑弥呼や邪馬台国のポイントをおさらい

  4. 負けず嫌いで人から頼られると放っておけない!「上杉謙信」は「AB型」の自由人?

  5. 日本国憲法に「男女平等」「児童教育」の理念を掲げたベアテ・シロタ

  6. 坂本龍馬はフリーメイソンだったのか?グラバーや勝海舟との出会い、龍馬暗殺との関係(前編)

  7. 戊辰戦争から150年目の今年「会津藩」の生き様を振り返ってみる

  8. 「二重人格って本当?」 AB型の特徴を歴史上の人物に当てはめてみた

    「二重人格って本当?」 AB型の特徴を歴史上の人物に当てはめてみた

  9. it’s crazy!高杉晋作の行動力や決断力の源を“5つの名言”から学ぶ

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

週間人気記事ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

全体人気記事ランキング

おすすめ記事

PAGE TOP