三成と家康の仲裁に入る
利家は豊臣家の中核として政治を任された五大老の一人であり、表面上では家康が豊臣家のナンバー2として取り仕切っていたが、実質的には利家のほうが権力をもっていたと言える。
日頃から秀吉は「もし俺に何かあったら豊臣家を頼んだ。息子の秀頼にも貸してやってくれ」と公言していたくらい利家を信頼していた。
若き頃には信長に仕え、勇猛果敢に多くの功績を残し、勝家のもとでは忠義を尽くし信頼され、豊臣の時代になると旧知の仲である秀吉を支え、気がつけば利家の人望は大きなものになっていたのだ。
多くの武将が利家に敬意を払い、その信用は厚く、信頼されていたのである。「兵が足りないなら声かけてください!」っていう武将が大勢いたわけだ。
家康としたら利家の存在は目の上のたんこぶ。コイツがいなけりゃ、次の天下は俺のもの。でも、勝てる気がしない。そう毛嫌いする家康に対し、利家は天下取りなど考えてはいない。
今まで、自分のやるべきことをやるだけ、そういう男だったからだ。そんな矢先、秀吉が病死する。
待ってました!と言わんばかりに動き出す家康。秀吉の死後、家康は伊達家や福島家と政略結婚を進め、無理くり部下を増やしていく。兵を増幅したり城をリフォームしたり不穏な動きが目立ち始めていた。
画像:徳川家康公之肖像画(江戸東京博物館)
生前、秀吉の命令で豊臣家の許可がない養子縁組は禁止されていたのだ。でも、そんなこと、家康には関係ない。もう死んだからルールは無効だ!と。この勝手な行いに「待った」をかけたのが石田三成だった。
前田利家、徳川家康を説き伏せる
三成は各地の大名や武家に「家康が変なことしているから用心してくださいね」といった書状を出し、利家には家康の勝手な行動を止めてほしいと相談する。
実際、利家も家康の行動に不安を抱いていた。利家は家康を金沢城に呼びつけ、直談判する。
「家康くん、ちょっと調子にのりすぎじゃない?周りから疑われても仕方ないよ」
「利家さん、変なことなんて企んだいませんから安心して療養してください」
「跡取りの秀頼様は、まだ幼い。我らが豊臣家を支えねば」
「わかっていますよ。だから安心して体をやすめてください」
利家は、秀吉の死後から体調を崩し、病に寝込んでいた。家康の性分を知っていた利家は、万が一にでも家康が妙な動きをしたら・・・と警戒し、枕の下に短刀を忍ばせていたという。
フラフラの状態で勝てるわけがないのに、さすがは加賀100万石を築いた男だけある。また、その気になれば家康と対立することもできたが、無駄な血を流したくなかった利家は諭すように家康を説き伏せた。
ちなみに、利家の妻として名の知れた「まつ」だが、利家が病気で寝込んで先が長くないことを悟ると、「お経を書かいた着物」を用意したという逸話がある。
「あなたは大勢の人を殺したから地獄に落ちるわ。あの世に行く時は、この服を着て地獄に行ってください。そうすれば、閻魔様も少しは許してくれるかも」と。
すると利家は、「バカなことを言うな。俺は命を懸けて戦ったが無駄な人殺しはやっていない。もし、それで地獄に落ちるようだったら、逆に閻魔大王に説教してやる」と言い返したという。
家康が恐れた男、前田利家
そして、秀吉の死から1年後、利家も秀吉のあとを追うように他界する。こうなったら家康の独走状態。
三成を関ケ原の合戦で討つと、今度は大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした。後陽成天皇から征夷大将軍の地位を授かり、264年にわたり続く江戸幕府を開いた。
人望が厚く、武力もあり、道理を重んじた利家。財力もあって経験も豊かで、その実績は知れ渡っていた。家康は思った。「そんな相手と喧嘩なんかしたら、下手すると自分が滅びてしまう可能性がある」と。
だから利家との対立は避けた。家康は用心深く、したたかな男である。後先を考えずに行動したりしない。家康の天下取りの背景には、いつも”利家”という大きな存在に悩まされていたというわけだ。
さて今回は、家康が利家のことを厄介者扱いしていた理由を話したが、利家が長生きしていたら家康の天下統一は遅れていただろう。そうなれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
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