人たらしの天才、豊臣秀吉の”褒め上手”に学ぶ「人を動かす」テクニック(前編)
画像:豊臣秀吉之像(藤原邦信画-大阪城)
セールスの場面では「人の意思を動かすスキル」が商談の結果を大きく左右します。そもそもセールス=営業のゴールは目的を達成することで、その過程において商談や交渉が必要になるわけです。
そうしたスキルを身につけるためにセールスマンは交渉術や営業ノウハウといった知識を学ぶわけですが、ビジネス書や参考書を読んでも実践できないスキルが多いというのも事実。
実践できない”哲学”は机上の空論になってしまい、商談や交渉の場面で活用できなければスキルとは言えないのです。高度な技術を学ぶためには、まず基本を曖昧にしてはいけません。
そのための基礎がコミュニケーション能力ではないでしょうか。そこで今回は、現代にも役立つコミニケション能力の極意を「人たらしの天才」と呼ばれた豊臣秀吉から学んでみたいと思います。
秀吉は「人たらし」の天才
画像:天下を獲った男 豊臣秀吉(©1993TBS)
愛知県中村区に百姓の子として生を受けた秀吉。天下統一の偉業を成し遂げ、大阪では「太閣さん」の愛称で親しまれている殿様ですが、「人たらしの天才」としても有名な人物です。
人たらしとは、簡単に解釈してしまえば人を誘惑したり騙したりすることを言いますが、秀吉の場合、周囲の人物を味方にする能力がズバ抜けて高かったと言えます。
織田信長や徳川家康に比べると秀吉は、生まれや育ちが恵まれた境遇にあったとは言えません。信長や家康は武士の家系に生まれましたが、秀吉は農民の息子。
ただし、秀吉の出生に関する明確な記録がなく、いずれにしても秀吉は大きなハンデを背負ってのスタートでした。そんな彼が後に天皇から関白という職を与えられ、天下統一も果たしています。
農民の息子が天下人になることは当時としても驚きだったはず。底辺からスタートした秀吉が天下統一を成し遂げられた背景には、人たらしと呼ばれるほど優れたコミュニケーション能力も理由の一つだったようです。
目的が明確だから手段も明確
画像:織田信長之像
秀吉は信長の家来として手腕を発揮しますが、そもそも農民の秀吉がどのようにして織田家に仕えることができたのでしょうか。さっそく秀吉のコミュニケーション能力が試されます。
今川義元の家臣である松下之綱の兵隊に志願し、下っ端の兵として働いた秀吉。しかし、想像とは違う世界にガッカリして合戦を抜け出してフリーターになります。
何度か転職を繰り返しましたが、ヤル気を出せるような仕事が見つからず途方に暮れます。そんな時、秀吉の目に飛び込んできたのが織田信長でした。
怒涛の勢いで天下統一を目指す信長に憧れた秀吉は、織田家で働いて信長の家来になりたいと考えました。「どうすれば信長さんの家来になれるかな」と試行錯誤。
なにがなんでも信長に会いたい秀吉は、まず、「馬借(馬を利用して荷物を運ぶ運送屋)」を営んでいた生駒家に就職。必死に働いて生駒家の主人に気に入られると、住み込みで働くようになります。
これこそが秀吉の狙いでした。住み込みで働けば生駒家の娘・吉乃に近づけるからです。なぜ秀吉は、吉乃に近づきたかったのでしょうか。
当時、信長は吉乃のことを気に入っており、頻繁に生駒家へ足を運んでいたそうです。その情報をキャッチした秀吉は、吉乃を通じて信長に近づこうとしました。
生駒家に住み込みで働き、吉乃の世話をして機嫌を取る秀吉。秀吉は、あの手この手で吉乃を笑わせたり話し相手になったりして、気づけば生駒家の一員になっていました。
しばらくして信長は「生駒家に面白い奴が働いている」という噂を聞きつけ、清洲城へ秀吉を呼びつけました。城へ招かれた秀吉は、ここぞとばかりに芸や面白い話で信長の機嫌を取ります。
そして、信長の気分が頂点に達した頃を見計らって秀吉は言いました。
「信長様、恐れ入りますがお願いがあります」
「なんだ?褒美が欲しいのか?言ってみろ」
「いえ、褒美は欲しくはありません。織田家の家来になりたいです」と。
しかし、信長の返事は「NO」でした。不採用に肩を落とし生駒家へ戻った秀吉は、吉乃に頭を下げて信長に口添えしてもらえないかと頼みました。
数日後、再び秀吉は清洲城へ呼び出されます。吉乃の頼みを聞き入れた信長は、秀吉を家来として雇うことにしたのです。こうして秀吉は織田家の家来として信長に仕えることとなりました。
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