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幕末のワイルド“スギちゃん”高杉晋作の生涯はマンガのように波乱万丈だった?(前編)

幕末のワイルド“スギちゃん”高杉晋作の生涯はマンガのように波乱万丈だった?(前編)


画像:高杉晋作の像Eastern Culture Association(東洋文化協會)

幕末の“スギちゃん”こと、「高杉晋作」。ワイルドで破天荒な生き様は、もはやマンガみたいにクレイジーです。しかし、行動力や決断力は偉人の中でもトップクラスで、「思い立ったら即行動!」がモットーの男。

晋作が遺した名言の一つに「まず飛び出すことだ!思案はそれからでいい」とありますが、行き当たりばったりの無鉄砲で行動していたわけではなく、瞬時に必要性を判断できる才覚の持ち主でした。

「この船は役に立つ」と上司に相談せず数億円する軍艦「丙寅丸」を藩の後払いで購入し、何も聞かされていない長州藩は突然届いた請求書を見て驚愕・・・。

徳川幕府が外国と交流するのを快く思わなかった晋作は、またもや藩や上司に無断でイギリス大使館を焼き払い、本人は主張や威嚇のつもりでも周りから見れば戦争行為。かなりクレイジーなんです。

今回は、そんな破天荒な人生を送った高杉晋作の生涯をクローズアップしました。幕末の革命児として新しい時代を夢見ながらも、27歳という若さで命尽きた波乱万丈の生き様に迫ってみたいと思います。

  高杉晋作の人生を変えた男


画像:近代日本人「吉田松陰」の肖像(国立国会図書館)

初代の高杉春時は毛利元就に仕え、先祖代々、高杉家は戦国時代から毛利家の家臣として長州(山口県)の守護に力を注いだ伝統ある名門です。

晋作は8歳で吉松塾に入り、一つ年下の久坂玄瑞と出会います。13歳になると長州藩が運営する明倫館に入学し、18歳のとき、久坂の誘いで「松下村塾」に入り、吉田松陰の弟子になりました。

勉学に励み、将来を有望された晋作は久坂、吉田稔麿、入江九一の4人で「松下村塾の四天王」と称され、いずれも倒幕(幕府と敵対)の主軸として重要な役割を果たすことになります。

松下村塾の四天王とは?

高杉晋作と久坂玄瑞は「松下村塾の双璧」と呼ばれ、そこに吉田稔麿が加われば「松陰門下の三秀」、さらに入江九一を合わせ「松下村塾の四天王」と称された。

ほかにも伊藤博文や山縣有朋、寺島忠三郎や品川弥二郎、山田顕義や野村靖、正木退蔵など、明治政府で活躍した人物には松下村塾の出身者も多くいました。

また、松下村塾の生徒ではありませんが、倒幕の中心人物の一人である桂小五郎(のちの木戸孝允)も青年時代に吉田松陰から兵学の教えを受けています。

これほど多くの偉人を輩出した松陰ですが、なかでも晋作に与えた影響は大きかったと言えるでしょう。なぜなら、晋作のワイルドな性格は、松陰に出会ったことで開花したと言っても大げさではありません。

つまり、師匠がクレイジーなら弟子も破天荒・・・というわけです。とはいえ、伊藤や久坂は晋作ほどワイルドではありませんし、もともと晋作の中に荒っぽい本能が眠っていたのでしょうね。

  猛烈な外国への敵対心


画像:中央・高杉晋作、右・伊藤俊輔(下関市教育委員会指導課)

時は1853年。浦賀(横須賀市)に黒船が来航し、ペリー提督の手によって大統領国書が徳川幕府に渡された年、この出来事をきっかけに「江戸時代の終わり=幕末」に突入します。

外国から複数の軍艦が押し寄せたことで国内はピリピリしたムード。そんな中、「幕府の野郎、外国と仲良くしやがって」と不満を抱えていたのが長州藩の高杉晋作でした。

幕府と外国の交流を快く思っていなかった晋作は久坂玄瑞や伊藤俊輔ら数名とイギリス大使館に放火し、「日本男児をナメるなよ」と言わんばかりの勢いで外国との対立を強めていきます。

しかも、大使館は江戸の品川御殿山に建設中の状態。後日、燃えカスになった建物を見て、各方面のお偉いさん方が激怒したのは言うまでもありませんね。

ちなみに、伊藤俊輔は、のちに初代内閣総理大臣となった伊藤博文です。晋作と幼なじみで弟分の伊藤は、いつも晋作や久坂に振り回され無茶に付き合わされていたようです。

高杉の死後、伊藤は次の言葉を残しています。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし」と高杉の大胆さを雷や嵐に例え、いかに行動的な人物であったかがわかります。

動けば稲妻のようで言葉を発すれば嵐のようだし、多くの人は驚き、あえて正視する者はいない

さて、イギリス大使館を焼き払って戦闘モードの晋作でしたが、あくまでも晋作の単独行動であり、長州藩にとっては“寝耳に水”の話。さっそく晋作を呼び出し、ことの経緯を確かめました。

「おい高杉、呼ばれた理由わかるよな?」

「大使館の件ですか?」

「なぜ、あんなことをした?考えがあっての行動か?」

「諸外国との親交を黙認すれば日本は植民地になってしまいます!」

「だから焼いたのか?」

「そうです。こうでもしないと誰も動かないでしょ?」

「ちょっと待て!高杉よ、今は時期ではない」

「わかりました。では、10年の休暇をいただきます」

そう言って、藩の許可なく無断で頭を剃り、侍から僧侶に転身。やっぱ、破天荒ですね。

  下関戦争の火種


画像:1853年「黒船之図」本間北曜(本間美術館)

イギリス大使館の焼き討ち事件から5ヵ月後、長州藩は「やっぱり外国を追い払おう」ということになり、山口県下関市の関門海峡を通るアメリカ・フランス・オランダの船に砲撃を開始します。

ところで、なぜ長州藩が外国船への攻撃を開始したかというと・・・

長らく日本は外国との交流を拒否(鎖国)していたのですが、徳川幕府の大老(最高職)である井伊直弼が孝明天皇の承諾を得ずに日米通商条約を締結したことがそもそもの発端でした。

通商条約は日本への輸入や輸出を許可する条約であり、外交の権限がない幕府が独断で進めたことに不信感を抱いた孝明天皇は、攘夷派(外国を嫌う派閥)の長州藩と結びつきを強めていきます。

しかも、この条約は別名「不平等条約」と言われるくらい日本に不利な条件が多く、さらに、イギリス・フランス・オランダ・ロシアに対しても似たような条件で通商条約を締結するのです。

孝明天皇の意向を受けた長州藩や水戸藩は、攘夷派を率いて幕府に鎖国を要求。「今すぐ条約を取り消せ」と。素直に幕府が応じるはずもなく、ますます事態はこじれていきます。

井伊直弼は過酷な弾圧で攘夷派を追い詰め、拷問や死刑など容赦ない罰を与えて一掃しようとしました。これが、徳川幕府が終焉へと向かうきっかけになった「安政の大獄」です。

その結果、桜田門外の変で井伊直弼は攘夷派の襲撃を受け暗殺されますが、幕府の大老が大勢の目の前で堂々と殺害されたことは世間に大きな影響を与え、幕府の権威を揺るがす事件になったのです。

2年後には幕府の老中・安藤信正が江戸城の坂下門外で水戸浪士に襲撃される事件(坂下門外の変)も起き、またしても幕府の信頼が損なわれる出来事となりました。

参考:桜田門外の変は「開国」をめぐる対立が発端?なぜ井伊直弼は殺された?

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