晋作、奇兵隊を発足する
画像:個人所蔵「長州奇兵隊」(平成25年 萩博物館)
坂下門外の襲撃から1年後、長州藩は関門海峡を封鎖し、攘夷派の武力行使としてアメリカ・フランス・オランダの船に砲撃を開始(1863年の下関事件)。
しかし、アメリカとフランスの猛反撃により20日ばかりで攻撃拠点を占領されてしまいます。
長州藩は壊滅的な損害を受けましたが、それでも関門海峡の防衛を続行。とはいえ、再び攻撃を仕掛けられたら敗北も覚悟の状況で、そんな緊迫するなか、呼び戻されたのが晋作でした。
10年の休暇は、わずか3ヵ月で終了・・・。長州藩13代目の藩主・毛利敬親はピンチを打開するために晋作を呼び戻し、関門海峡の防衛を命じます。
ちなみに、敬親は晋作が子供の頃から可愛がっており、晋作がトラブルを起こすたびに「あいつは許してやれ」と寛容な処分で済ませていたそうです。
型破りでクレイジーな晋作でしたが、その裏に秘められた器量の大きさを敬親は理解していたのでしょう。「いつか長州にとって貴重な人材になる・・・」と。
さて、再び長州に戻った晋作は、敬親の期待に応えるべく長州藩士の周布政之助に打開策を提案します。それは、ありきたりな提案ではなく、価値観をひっくり返す奇想天外なプランでした。
「晋作よ、何か良い考えはあるか?」
「うん、あるよ!」
「なんだ?」
「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」
つまり、“従来の戦法やルールに縛られず臨機応変に対処できる兵隊をつくって敵の意表を突く”と周布に話し、名づけて「奇兵隊」。そうして、敬親の許可を得て晋作は奇兵隊を発足しました。
奇兵隊は藩士以外の侍や町民で編成した混合部隊であり、正規の兵隊を意味する「正規兵」の対義語。当時、藩士と武士で編成されていた「撰鋒隊」に対する反対語としての意味もあったようです。
初期メンバーは15名ほどでしたが、志願者を募るときは吉田松陰の「草莽崛起」という考え方に基づき、武士だけでなく農民や町人、漁師や力士など身分を問わず受け入れました。
やがて600名を超える部隊へと成長し、結果的には武士の出身が5割、4割が農民という構成に。晋作を支援していた廻船問屋・白石正一郎の屋敷で結成し、晋作は奇兵隊の初代総督となりました。
身分制度が色濃く残っていた江戸時代に、身分やキャリアを問わず受け入れるというプランは斬新だったのです。そして、奇兵隊は“長州だからこそ誕生した”と言えます。
奇兵隊が長州で誕生した理由
画像:絹本着色「毛利輝元」之像(毛利博物館)
戦国時代に長州を仕切っていた毛利家は山陰・山陽に150万石を築いた有力大名です。しかし、関ヶ原の合戦で徳川家に敵対したことで全領土を没収されてしまいます。
幸いにも吉川広家の口利きで長門と周防に40万石を与えられ、毛利家は無一文にならずに済みましたが、領土が3分の1以下になって財政が苦しくなったのは事実。
さらに、ほとんどの家臣が毛利家に残留し、養うのが困難になるという問題を抱えます。仕方なく解雇しなければならなくなった家来もおり、これらの者達は農民になって生計を立てました。
戦国から江戸へ時は過ぎ、奇兵隊の発足が決まると兵士の4割が農民という構成になるのですが、奇兵隊に農民が多かったのは偶然ではないようです。
志願した兵士の先祖は、ほとんどが毛利家の家臣だったとのこと。長州に強い想いがあり、集まった兵士のルーツを辿れば先祖が毛利家の家臣というつながりがあったわけです。
戦国時代に毛利家を離れ農民となった者たちの子孫が、時を経て、再び毛利家の家臣となり、長州のために命を捧げるという“宿命”をもった者たちが集まった部隊なのかもしれませんね。
下関事件が発端で結成された奇兵隊ですが、当初の目的はアメリカ・フランス連合軍が長州に上陸するのを防ぐために晋作の案で発足した防備部隊でした。
ところが、奇兵隊のなかには“血の気の多い荒くれ者”もおり、長州藩の正規部隊・撰鋒隊と折り合いが悪くなっていくと、ついに奇兵隊の兵士が撰鋒隊の兵士を惨殺するという事件が起きてしまいます。
この事件(教法寺事件)の責任を問われた晋作は奇兵隊の総督を解任され、発足から3ヵ月のこと。
後任は河上弥市と滝弥太郎が務め、最終的に赤根武人が責任者となり、さらに山縣有朋が軍監(軍事の指示や監督)を務め、長州藩の正規部隊に組み込まれるまでの組織となりました。
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