息子は秀吉が天下無双と称えた武将!忠義の勇将「高橋紹運」の生涯
画像:高橋紹運(天叟寺)
戦国時代、主君に忠義を貫いた武将は数多くいますが、大友宗麟(21代目・大友氏当主)の家臣である高橋紹運(たかはしじょううん)も義に生きた戦国武将の一人です。
1548年に豊後(大分県)の武将・大友義鑑の家臣だった吉弘鑑理の次男として生まれ、この頃、大友氏は中国地方から豊後に侵攻してきた毛利元就と争っていました。
紹運の初陣(13歳)も毛利勢との合戦でしたが、結果的に大友氏は毛利氏に敗戦。そして20歳のとき、紹運の運命を左右する人生のターニングポイントが訪れます。
22歳で大友氏の重臣となる
画像:立花道雪(柳川市福厳寺)
大友氏の重臣・高橋鑑種が毛利氏に寝返るという事件が勃発し、紹運は父の鑑理や兄の鎮信、大友氏の家臣・戸次道雪(のちの立花道雪)らと鑑種の征伐に出陣し、2年の歳月をかけて制圧しました。
当主の鑑種を討たれた高橋家の家臣たちは、大友氏に「新しい当主を決めてください」と懇願。宗麟は高橋家の家督を紹運に継がせ、紹運は吉弘から高橋へと姓が変わりました。
岩屋城と宝満城も受け継ぎ、紹運は22歳で高橋家の当主となり、大友氏の重臣となります。武功に秀でていたのは確かですが、それ以上に主君の宗麟から厚い信頼を寄せられていたのでしょう。
追い込まれる大友氏
画像:島津義久(照國記念館)
鑑種を征伐したのも束の間、大友氏は中国地方の毛利氏と敵対する一方、薩摩(鹿児島)の島津義久も豊後に侵攻してきている状況で、かなり追い詰められていました。
そんな最中に大友氏の当主・宗麟はキリスト教を信仰するようになり、仏教徒の家臣や領内の豪族らに愛想をつかされ急激に兵力がダウンするという状況にも追い込まれてしまうんです。
宗麟は息子の義統に家督(22代目の大友氏当主)を譲りましたが、引退したにも関わらず口出しするので大友家の中で二頭政治が生じてしまい、指揮や軍事も乱れてしまう事態に発展しました。
そして、1578年、紹運が31歳のとき、大友氏は日向高城川原(宮崎県木城町。耳川の戦い)で島津軍と戦い、奮戦したものの大敗してしまいます。
この戦いで大友氏の有力な家臣や武将が討たれ、大友氏の立場は急速に危うくなっていくのです。紹運の兄である鎮信も耳川の戦いで戦死しました。
紹運は頭を剃り、このときに鎮種(しげたね)から「紹運」へと改名したんですね。
紹運の決断
画像:立花宗茂(福巌寺)
耳川の戦いでの大敗に加え、大友氏の衰退を見かねた高橋家の家臣らは「そろそろ大友氏から離れよう」と紹運へ進言しましたが、紹運は断固として進言を聞き入れませんでした。
こうなってくると高橋家の家臣にとっては紹運も厄介な存在になってきます。やがて、当主である紹運を追放しようとする企みを高橋家の家老が密かに計画。
しかし、すぐさま紹運にバレてしまい、その家老は成敗され一件落着。紹運は最期まで大友氏に忠義を貫く姿勢を表し、やがて訪れる島津軍との戦いに備えたのでした。
しばらくして紹運のもとに立花道雪から「お前の長男(統虎)を婿養子にしたい」という申し出があり、跡継ぎである長男を養子に出すというのは異例のことでした。
さすがの紹運も一つ返事では済ますことができず考えましたが、道雪の熱烈なアプローチに負けて承諾しました。そして、統虎は道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚し、立花家の婿となりました。
婿入りする際、紹運は統虎に「道雪と俺が敵対したら真っ先にお前が俺を討ちに来い。ためらったときは、この刀で直ちに自害しろ」と伝え名刀・備前長光を授けたそうです。
統虎こそ、のちに豊臣秀吉が天下無双と称える武将、立花宗茂。宗茂は生涯、紹運の言葉を忘れることなく高橋家に忠義を尽くし、授かった長光を大切に持っていたそうです。
立花宗茂の記事はコチラ↓