弥生時代は"諸説あり"だらけ?謎多き卑弥呼や邪馬台国のポイントをおさらい
画像:卑弥呼の銅像(卑弥呼神社)
弥生時代と聞いて、まず思い浮かぶのは「卑弥呼」や「邪馬台国」の話。でも、卑弥呼って何者?邪馬台国って何処?と言われると、なんだかフワッとした説明しかできないですよね。
ぶっちゃけ、それで正解なんです。だって弥生時代は、ことあるごとに「諸説あり」ですから・・・。とはいえ、やっぱり卑弥呼や邪馬台国の話は無視できないわけです。
そこで今回は、諸説あり"だらけ"の弥生時代について、通説や文献を参考にしながら卑弥呼や邪馬台国のポイントをおさらいしたいと思います。
西暦と皇紀について
画像:安達吟光・画「神武天皇」(国立国会図書館)
平成から令和に改元された2019年。「西暦」で表すと今年は2019年ですが、「皇紀」に換算すると今年で2679年目。皇紀(皇暦)とは、 神武天皇(初代天皇)の即位から始まる紀年法です。
紀年法とは、ある地点を「元年=1年」として、そこから年を数える方法のこと。元年は0年ではないので覚えておきましょう。元年の次は2年ですからね!
上記を踏まえると、皇紀661年から西暦1年が始まったという解釈になり、神武天皇が即位した年(皇紀元年)から令和元年に至るまで2679年の歴史があるわけです。
西暦はイエス・キリストが生まれた翌年を元年とした紀年法ですが、皇紀での記述は戦後(昭和23年)に廃止されたため、それから日本も西暦を使用しているようです。
ちなみに、一般的には西暦元年から前の年を「紀元前」と言い、皇紀元年は紀元前660年という解釈になります。紀元前は西暦元年が分岐点になるので、これも覚えておくと便利です。
●令和元年は、 ・西暦で2019年 ・皇紀で2679年 ・皇紀を西暦で表すと紀元前660年(表記にすると西暦紀元前660年となる) |
皇族の系譜(先祖)って2679年前(紀元前660年)までさかのぼるんですね。
そう考えると皇紀元年が「日本の原点」と言えそうですが、日本の古代史(日本のルーツ)は謎だらけで未だ確かな根拠はつかめていません。
卑弥呼って何者?
画像:左・新人物文庫 右・山川出版社
紀元前660年の日本は弥生時代の初期で、人々は竪穴式住居で暮らし、水稲耕作が日本の各地に広まり始めた頃。その850年後、西暦189年に「卑弥呼」という人物が登場するわけです。
※紀元前660年を縄文時代の末期と解釈する説もありますが、いずれにしても卑弥呼は弥生時代の人物として統一されています
まず、弥生時代の日本は「倭」という名称が一般的です。
そもそも、この頃の日本に文献や書物は存在しておらず(文字という文化がない)、古代中国の「後漢書」や「魏志倭人伝」などの文献以外で当時の日本の様子を知るすべがありません。
※魏志倭人伝
古代中国の歴史書で、三国志の第30巻「魏書」の中に記されている「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の通称
ここで言う当時の様子とは何か、ずばり「卑弥呼」に関すること。
西暦185年あたりの古代中国は魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3国に分裂しており、それぞれに皇帝がいました。すなわち、三国志でお馴染みの三国時代です。
すでに、この時点で驚きなんですが、曹操とか劉備とか孫権とか諸葛孔明など三国志の英雄たちが激しくバトルしていたとき、日本はまだ弥生時代の終わり頃なんですね・・・。
さらに余談ですが、4月に公開された映画キングダムは古代中国の春秋時代(紀元前770年~紀元前221年)に起きた中華統一を描いており、秦の始皇帝が中国を統一したのは紀元前221年。
西暦185年も紀元前221年も日本は弥生時代の真っ最中で、布切れ一枚で稲作に励んでいた時代ですから、当時の中国は倭と比べ物にならないくらい最先端の国だったことがわかります。
少し話が脱線してしまいましたが、三国のなかでも勢力が大きかった魏に卑弥呼は使いを送り(西暦239年)、倭と魏に交友関係があったことが記されています。
そもそも、この卑弥呼は何者なのでしょうか。