妖怪退治の陰陽師「安倍晴明」って何者ですか?
画像:©2003映画「陰陽師Ⅱ」(東映)
陰陽師。その起源は古代の中国で行われていた陰陽五行に由来し、天文や暦などを用いた陰陽道として600年代の半ば頃に日本へ伝来したと言われています。陰陽師といえば、平安時代に名を轟かせた「安倍晴明」が有名ですね。
ちなみに、戦国時代の軍師(正式には軍配者)も方角や天文に基づく陰陽を用いて出陣のタイミングや縁起の良い方角・合戦の日時を決めていたそうです。そこで今回のテーマは陰陽師と安倍晴明。
安倍晴明とは「どんな人物だったのか」、「どのような役割を担っていたのか」について紹介したいと思います。
陰陽師とは?
画像:晴明神社の五芒星
陰陽道とは、陰陽五行論と陰陽思想に基づく中国の学問が発祥です。
600年代の半ば頃に日本へ伝来し、600年代の後期には陰陽師に官職(今で言うと特別国家公務員のような位置)が与えられ、天体観測や自然地理の把握、暦や時刻の設定など研究が始まります。
つまり、当初の陰陽師は"学者"であり"役人"だったわけです。しかし、794年に始まる平安時代から陰陽師の立場は変わっていきます。陰陽寮(陰陽師が務める役所)が設けられ、上流階級の役職と肩を並べるようになるのです。
そういった学術的な研究のほかに平安時代になると陰陽師の主な仕事は、
- 鑑定や占術
悩みを聞き、現状の解決策や将来を鑑定 - 吉の方角や吉日を鑑定
その人にとって良いとされる方角を占い、または吉日を導き出す - オーラを見る
オーラを見ることによって健康状態や病などを判定する - 術をかけて改善する
結界や式神、除霊など術をかけて災いを振り払う
といった完全な"対人商売"に変化していきます。
平安時代の中期(900年頃)から京(都)に疫病が流行し、死者が多発すると"疫神(疫病をはやらせる神)"の仕業と恐れられました。現代のようにウイルスという概念はなく、疫病を司る神の"祟り"と思われていたのです。
そして、もう一つ・・・。
平安時代、疫神のほかに恐れられていたものが「妖怪(変化)」。分かりやすく言うなら"化け物"ですよ。
本当にいたの?ということは問題ではなく、当時、心の底から誰もが妖怪の存在を信じていたことが重要なポイントで、平安時代とは人々が疫病と妖怪を恐れていた時代なのです。
そんな中、この問題に立ち向かったのが陰陽師たち。そして、その頂点に君臨したのが安倍晴明と言われています。
陰陽師・安倍晴明
画像:小松和彦・監修「日本の妖怪」(宝島社)
陰陽師の宗家(本家)と言われる賀茂忠行は透視が得意で、八角形の箱に入った水晶の数珠を透視するという技を醍醐天皇に披露し、見事に的中させたと今昔物語に記されています。忠行の弟子が安倍晴明です。
本来、陰陽師は占術や天文学を中心に暦学を用いた学問であり、映画やマンガで描かれているような魔術的な要素はなかったのですが、そのイメージを定着させたのが忠行と清明でした。
清明は妖怪と戦うとき、主に「式神」を召喚して退治していたそうです。式神とは陰陽師が操る鬼神※のことで、 有能な陰陽師は人や動物、獣や妖怪(もののけ)など様々な姿に鬼神を変化させる能力が備わっていたと言われています。
※鬼神・・・人の耳や目ではとらえることができない超人的な能力をもつ存在。人間の死後の霊魂や霊体などを指す
また、この式神を使って人間を呪い殺すことも可能だったようです。いわば、魔術師のような扱いをされていたわけです。
さて、晴明は幼い頃から忠行に陰陽道を学び、逸話によると、忠行が寝苦しくて目を覚ますと幼い晴明が庭に座っており、その周りを式神たちが囲んで笑いながら飛び回っていたそうです。
ほとんどの式神は下級の悪霊であり、扱い方を間違えると操っている本人が悪霊に憑りつかれてしまい、黄泉の国(あの世)に引き込まれるとされています。このとき、まるで清明が周りを飛び交う式神を操っているように見えたとか。
忠行は生まれながら清明には特殊な能力が備わっていることを悟り、一刻も早く一人前の陰陽師に育てなければ悪霊に身を滅ぼされてしまうと心配し、翌日から知る限りの知識と技術すべてを晴明に伝授し始めたと言います。
ただ、一つ問題がありました。忠行には保憲という息子がいましたが、晴明の能力には到底及びませんでした。
もし世間が晴明の能力に気づいてしまえば賀茂氏よりも安倍氏が有力になることを忠行は恐れ、「人前で方術(式神や度を超えた妖術)を使ってはならぬ」と晴明に忠告しています。
清明は忠行の忠告を守り、その見返りとして清明を左京権大夫や播磨守といった役職に就かせ、清明は朝廷の中核として地位を確立しました。しかし、一度だけ忠告を破ったことがあります。
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