愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(後編)
画像:最上義光公之像(山形市大手町-最上義光歴史館)
直江状が発端となり会津へ向かった家康でしたが、三成が動き出したことを知ると上杉征伐を中断して岐阜に進路を変えました。これによって被害を受けた人物が山形の最上義光です。
上杉征伐が決まったとき、最上は家康から「上杉に気づかれないように福島へ侵入して攻撃しなさい」という指示を受けており、言われたとおりに準備を進めていました。
徳川のバックアップがあるなら上杉と戦うはめになっても勝てるはず・・・と、素直に従った最上。ところが、家康が東北から引き返し孤立してしまいます。
「イケイケの上杉軍と戦ったらマズい・・・」そう考えた最上は自分の長男を人質として上杉に差し出し、「山形には攻めてこないでね」と保険をかけたのです。
一時は上杉も承諾しましたが、家康の指示で最上が福島を攻める準備をしていたことが発覚し、この話は却下。それどころか、激怒した景勝は兼続に出陣を命じ、山形への攻撃を決定しました。
兼続、最上軍と戦う
上杉家には武勇に秀でた叩き上げの人材が多く揃っており、その先陣をきって統率していたのが兼続でした。なかでも一際目立つ武将が、槍の使い手である前田利益(前田慶次郎)ではないでしょうか。
ほかにも剣豪で知られる上泉泰綱、腕っぷしの強さで有名な山上道及や車斯忠など強者ばかり。1600年10月14日、兼続は2万5千人を率いて米沢城を出発し、最上の山形城に向けて進軍を開始。
対する最上軍の総兵力は7千人ほど。兼続が率いる上杉軍は18日に最上の拠点・畑谷城を攻め落とし、菅沢山に陣を張ると最上の最重要地点である長谷堂城を包囲。
長谷堂城を落城させれば一気に山形城を攻め落とすのみ。誰もが上杉軍の勝利を確信していましたが、最上の援軍が駆け付けたことで状況は一変するのです。
その援軍とは、宮城の覇者「伊達政宗」。実は、最上の妹・義姫(保春院)は政宗の母親。このとき義姫は宮城から山形城に戻っており、母を救うという理由で政宗は援軍を出したと言われています。
一説によると「義姫から援軍を出すように命じられた」という話もありますが、いずれにしても最上家と伊達家には深いつながりがあり、兼続にとっては誤算だったはずです。
事実、伊達の援軍が到着して以降、それまで快進撃を進めていた上杉軍は撤退を決断することになります。
21日に長谷堂城へ攻撃を開始するも、30日には留守政景(伊達政景)が率いる3000人の伊達軍が須川の沼木に陣を構え、山形城を出発した最上軍も稲荷塚に着陣。
上杉軍は挟み撃ちを食らう羽目になり、攻めから守りへと状況が変わってしまいます。さらに、追い打ちをかけるように兼続のもとへ悲報が届きます。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れ家康が勝利した、と。10月21日に開戦した関ケ原の合戦は6時間で決着がつき、その知らせが兼続のもとに届いたのは11月の初めでした。
その知らせを聞き戦意を失った兼続は自害を考えますが、前田利益に「命を粗末にするな」と説得され、11月6日には山形からの撤退戦を開始します。
8日に荒砥まで逃げ切り、9日には米沢城に生還しました。最上義光物語には、「直江は関ケ原の敗戦を知っても勇敢に戦った」と敵ながら兼続を讃えており、決死の撤退戦であったことがわかります。
敗戦後に駿府城で家康と謁見した際にも、兼続を見た家康は「ウワサ通りの強者だ」と褒めたそうです。さて、直江状で家康を挑発し、西軍に加勢した上杉家と兼続は、どのような処分を受けたのでしょうか。
関ケ原の戦い後の処分
画像:上杉景勝之銅像(上杉神社)
関ケ原の合戦後、西笑承兌は景勝に上洛を進言し、家康に謝罪する機会を与えました。
景勝は兼続を引き連れ京都へ出向きましたが、二人とも悪びれる素振りもなく堂々とした態度で申し開きしたため、家康は執拗に問い詰めることはしなかったそうです。
もし、景勝もしくは兼続が弱腰で謝罪していたら、重い処罰を受けていたかもしれません。上杉家は西軍に加勢して家康に敵対したわけですから、死刑や監禁といった厳しい処罰が当然の時代。
実際、関ケ原の戦いで西軍に関与した武将の多くは死刑や監禁など重い処分を受けています。
しかし、上杉家は120万石の没収と会津から米沢への移動で処分は終わり、江戸時代に入ると景勝は米沢藩主を任せられ、徳川家の家臣として重宝されました。
兼続に対しても厳しい処分はなく、本来なら死刑になっても仕方ない状況にもかかわらず、謙信の遺徳や兼続自身の人間性を高く評価したうえで家康は処罰を大幅に軽減したと言われています。
とはいえ、敗戦後の上杉家は会津120万石から米沢30万石へ格下げになったため、苦渋の決断を迫られることになります。
120億の収入が30億に下がれば家来を養いきれず、大幅なリストラも検討しなければなりません。ところが、景勝は上杉家の家臣や兵すべてを米沢へ連れて行き、誰一人として解雇しなかったそうです。
米沢に移動後の兼続は治水工事や農業の開拓に尽力し、藩の政治(内政)を安定させるために城下町の整備や町民の暮らしにも力を注ぎました。
米沢城の城下は小さな町で、突然、会津から大人数が移動してきて大混乱。臨時の住居を建てたり生活環境を整えたり、上杉謙信を祀る霊廟(墓)を築いたり大忙しの兼続。
城下の東を流れる松川(最上川の上流)に3キロメートル続く石積みの堤防(直江石堤)を築いて洪水を防ぎ、さらに川から水路を設けて城下への水を確保しました。
農業の発展を目的として新田開発にも着手し、表面上は30万石でしたが実質的には50万石を超える収入が得られるようになったのです。兼続の治水工事や農業の開拓が米沢藩の基盤をつくったことは言うまでもありません。
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