愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(前編)
画像:直江兼続之像(米沢市-上杉博物館)
兜に「愛」のトレードマークが印象的な直江兼続。曲がったことが嫌いで正義感の強い兼続は道理を重んじ、忠誠心も強く、己の生涯をかけて上杉景勝に尽くした忠義の武将です。
18歳で景勝の側近を務め上杉家の主要人物になると24歳の若さで家老(家臣の中で最高の地位)に昇格し、上杉家の№2として部下を束ねる絶対的リーダーとなりました。
優れた知性と勇敢な精神で景勝を支え、秀吉から「わしの部下にならないか?」と誘われたときも「生涯、私の主君は上杉ただ一人」と即答で断ったほど一途な男です。
幼い頃から上杉謙信の教育を受け、義勇の心を磨き、時代の波に翻弄されながらも天下泰平の世を夢見た兼続。民のため、主君のために人生を捧げた兼続の半生を振り返ってみましょう。
上杉家と兼続の関係
画像:芳年武者旡類「上杉謙信入道輝虎」(月岡芳年作-東京都立図書館)
1560年、樋口兼豊(謙信の家臣)の長男として新潟県南魚沼市に生まれた兼続は、5歳で親元を離れ景勝の世話役として上杉家で暮らし、景勝と寝食や勉学を共にしながら育ちました。
幼名は与六。少年期になると樋口与六兼続と名乗り、直江の性になったのは21歳のときです。
景勝は謙信の養子で8歳のときに上杉家に迎え入れていますが、生涯において独身の謙信は跡取りがいなかったため、景勝に武芸や勉学を施して実の息子のように育てました。
また、兼続も謙信の薫陶(くんとう)を受け育っており、この頃から物事に対する考え方や生き方など義を重んじる人格が備わっていきます。兼続にとって謙信は師匠であり、父のような存在でした。
謙信も、「景勝が跡を継いだときには支えてほしい」そんな期待を込めて兼続を育てたのではないでしょうか。その期待に応え、兼続は上杉家になくてはならない存在となるのです。
※薫陶とは
人徳や品位のある人物が教育すること。ただ単に勉学や技術を教えるだけでなく、人格を育てるために道徳的な教育や精神的な自立も含めて丁寧に教育を施すこと。
画像:上杉景勝之像(上杉神社所蔵)
謙信の死後、北条氏康の息子・上杉景虎が「後継者は俺だ!」と名乗りを挙げ、跡継ぎ争い(御館の乱)が勃発すると、この戦いで兼続は景虎を追放し、異例の若さで幹部に昇格します。
無事に謙信の跡を継いだ景勝は上杉家17代目となり、秀吉が天下を取ると豊臣政権の五大老に就任し、会津(福島)の領地を与えられ120万石の有力大名となりました。
秀吉の多大な恩恵を受けた上杉の名は全国に知れ渡りましたが、そこに至るまで困難があったことは言うまでもありません。なかでも最大のピンチが織田信長の存在でした。
まだ秀吉が天下をとる前の時代。謙信の死をきっかけに信長は東北への攻撃を開始し、富山を制圧した5万人の織田軍は会津に北上して上杉家に攻撃を仕掛けます。
怒涛の勢いで攻め込む織田軍を前に、景勝は玉砕覚悟の戦いを決意。ところが、その矢先に本能寺の変で信長が死去し、東北の攻撃は中止され、上杉家は九死に一生を得ました。
兼続、樋口から直江の性へ
画像:岡村賢二著「直江兼続-信義の執政-」(リイド社)
さて、樋口家に生まれた兼続ですが、いつから「直江」の性を名乗るようになったのでしょうか。直江といえば藤原鎌足を先祖(遠縁)にもつ鎌倉時代から続く伝統ある名家です。
兼続が「直江」の性になったのは21歳(1581年)のときで、当時、上杉家の家臣であった直江信綱が毛利秀広に暗殺され、景勝の助言を受けて兼続は信綱の妻(お船)と再婚することになります。
信綱は上杉家の重臣だったため、直江家が断絶するのを避けるために兼続をお船の婿養子にして直江家を存続させたわけです。これにより兼続は、樋口与六兼続から直江兼続へ名が変わりました。
樋口与六→樋口与六兼続→直江兼続
さらに1584年、景勝の側近を務めていた狩野秀治が病死すると、兼続が上杉家の実質的な№2となり、小田原攻めや佐渡征伐など数多くの合戦で軍を束ね出陣しました。
景勝が兼続に厚い信頼を寄せていたのは当然ですが秀吉も兼続を高く評価し、兼続に米沢の一部(30万石)を与えた際には「豊臣の家臣になれ」と誘ったと言われています。
しかし、この誘いに対し兼続は、「我が主君は上杉だけ」と迷うことなく一つ返事で断ったそうです。
やがて秀吉が病死すると、上杉家の存続を揺るがす重大な事件が起きます。徳川家康と石田三成が対立し、豊臣家の中で二大派閥が生まれてしまうのです。
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