なぜ北条氏は秀吉に従わなかったのか?小田原征伐は秀吉の"シナリオ"だった?
画像:小田原城(神奈川県小田原市)
秀吉の天下統一は1587年の「九州攻め」で島津家を服従させ、1590年に関東の「小田原城攻め」で北条氏政を討伐、氏直を高野山へ追放したあとは奥州仕置、という流れが通説ですよね。
島津家を服従させた頃には、すでに秀吉は天下統一を果たしたも同然。つまり、ほとんどの大名や武将たちが豊臣の家臣になっているわけで、今さら歯向かっても勝ち目がないというのは一目瞭然なんですよ。
それなのに「なぜ北条氏は最後の最後まで秀吉に従わなかったのか」、その理由を今回は探ってみたいと思います。
なぜ北条は秀吉に従わなかったのか?
画像:北条氏政の肖像(法雲寺)
まだ秀吉が天下統一を果たす7年前のこと。北条氏政は天正壬午の乱を経て敵対していた徳川家康と1583年に和解し、家康は娘の督姫を氏政の息子・氏直に嫁がせます。
また、氏政は武田氏が滅びたあとに奪取していた元・武田の領土(甲斐国・信濃の佐久、諏訪)を家康に譲渡し、家康は真田氏が所領する上野国沼田を氏政に譲渡しました。
ちなみに、このとき北条氏に譲渡された沼田について真田氏は承諾しておらず、ほぼ家康の独断行為。結果、真田氏は家康に嫌悪感を抱き、上杉景勝と手を組んで第一次上田合戦にて北条氏から沼田を奪還するのです。
しかし、秀吉の采配により、1589年には沼田を北条氏に譲ることになります。その後、秀吉は北条氏5代目の氏直(氏政の息子)に「京都に顔を出しなさい」と上洛を要請しますが、実質的に北条家を仕切っていた氏政が拒否しました。
この氏政の行為は、言わば「豊臣家には服従しない」という意思。さらに、北条氏の家臣で沼田城を任せられていた猪俣邦憲が真田氏の領地・名胡桃城を騙し取る流れとなり、これに激怒した秀吉は小田原征伐を決意するわけです。
さて、氏政は秀吉の上洛を拒否し、なおかつ真田氏を怒らせるような挑発行為に及んだのでしょうか。一般的には昔からの大名である北条氏が成り上がりの秀吉に仕えたくなかったというイメージが強いですが、でも実際は、そんな単純なことではないようです。
氏政といえば、全盛期には武田信玄や上杉謙信と互角に対峙し、天正壬午の乱でも"難攻不落の小田原の主"として警戒されていたほどの武将。安直なプライドだけで、危険を冒すような人物ではなかったはずです。
では、なぜ氏政は秀吉に従わなかったのでしょう。その謎に迫るヒントとして興味をもったのが、森田善明さんの著「北条氏滅亡と秀吉の策謀」に書かれている"秀吉の描いたシナリオ説"です。
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