明智光秀は俳句で本能寺の変を予言していた?
本能寺の変を起こした首謀者として歴史の悪役になった明智光秀。光秀と本能寺の変を結ぶヒントの一つに光秀が残した「愛宕百韻」という連歌(俳句)がある。
時は今 天が下しる 五月かな
現代語に訳すと、「今は五月そのものである」と情景を読んだ句。とくに、何の意味もない、情緒を想って歌った俳句と捉えることができるが、視点を変えて読むと全く違う内容が浮かび上がってくる。
この句を光秀が書き残したのは天正 10年5月24日、または5月28日である。その数日後、天正10年6月2日に光秀は兵を挙げ早朝に本能寺を襲撃した。
さらに、光秀がこの句を読んだ場所も興味深い。光秀の領地である愛宕山・威徳院にて、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐ら家臣の前で読み上げている。
そして、この句を本能寺の変とつなげて解釈すると次のような解釈ができる。
「土岐氏が今、天下をとる。この五月に」
明智は美濃国の守護だった土岐頼貞の九男、土岐頼基の末裔だと言われており、時と土岐をかけて、光秀が天下を狙っていることを俳句で読んだのではないか、という説を唱える者もいる。
また、これとは別にこんな解釈もある。光秀の末裔・明智憲三郎氏は自身の著書「本能寺の変 431年目の真実」の中で、「俳句は書き換えられたものである」と主張している。
本来の句は「下しる」ではなく「時は今 天が下なる 五月かな」とのこと。「下しる」と「下なる」が違うだけで全体の解釈が大きく変わってくる。
「しる」は「治める」という意味があり、「下しる」だと「天下を治める」という意味。「なる」では「降る」という意味になり、「下なる」であれば天を雨と解釈して「雨が降る」となるのだ。
つまり、「土岐氏は今、降り注ぐ五月の雨に叩かれているような苦境である」と解釈することになる。土岐一族の苦しい現状を歌っただけで、本能寺の変を示唆する俳句ではなくなるのだ。
ある人は”謀反の決意を表した句”と言い、ある人は”己の現状を歌った俳句”と主張する。いずれも確証に迫る裏付けがないため、やはり謎のままである。
慎重で用意周到だった光秀が信長を討ち、その13日後に山崎の合戦で秀吉に光秀が討たれ死んだのも後味が悪く、なぜ後先考えず光秀が信長を裏切ったのか、その理由も謎である。
戦国史もっとも謎に包まれた信長の死
前編では文献や書籍を基に3つの謎について紹介したが、やはり核心に迫る史実は残されていないことがわかる。第六天魔王と恐れられ、天下統一に一番近い男だった信長。
そんな強者が部下の裏切りに遭い、たった数時間で命を落とし、遺体の痕跡すらなく姿を消した。そして、用意周到で慎重者と言われていた光秀が、いとも簡単に秀吉に討たれ命を落としている。
謎多き本能寺の変。後編では、信長の死に隠された”黒幕”説に迫ってみたいと思う。戦国史もっともミステリアスな出来事となった本能寺の変、さて、いつか真実が明るみになる日が訪れるのだろうか。
↓後編はこちら↓
織田信長の死に隠された10の謎。戦国史もっともミステリアスな「本能寺の変」の真実(後編)
https://rekishi-hack.com/honnouji_truth2/
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