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明治維新の武闘派集団「奇兵隊」は「長州」でなければ結成されていなかった?

奇兵隊の強さ

人員が増えた奇兵隊は、本部を白石正一郎の屋敷から赤間神宮に移している。また、8月18日の政変では奇兵隊が三田尻にて七卿落ちした公家の警護を担当している。

七卿落ちとは、1863年(文久3年)に薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。
参考:七卿落ち(Wikipedia)

しかし、長州藩で構成される撰鋒隊と奇兵隊が衝突した教法寺事件が原因で、高杉晋作は3ヶ月ほどで責任者の立場を解任され、奇兵隊には関係のない藩の仕事を命じられた。

高杉の後任は河上弥市と滝弥太郎が務め、最終的に赤根武人が責任者となり、さらに山縣有朋が軍監(軍事の指示や監督)を務めている。

長州藩には奇兵隊のほかにも身分を問わず編成した戦闘部隊「御楯隊」など、およそ100の部隊ができていたため、奇兵隊も長州藩に仕える一つの部隊として正規軍に組み込まれた。

最盛期の奇兵隊は600名を超え、一次長州征伐や鳥羽・伏見の戦いなど前線で活躍し、その強さを発揮した。長州藩には100の部隊があったのに、なぜそこまで「奇兵隊が目立ったか」というと、ずば抜けた”強さ”にほかならない。

下関戦争で敗れた教訓をもとに兵の配置や近代的な戦い方を研究し、西洋の戦法を取り入れて農民でも鉄砲を撃てるように訓練した。とくに戦術に関しては、西洋の「散兵戦術」をマスターしたことにある。

日本の戦術は敵兵の逃亡を防ぐ密集陣形が基本で、戦場では指揮官の指揮に従って行動するのが絶対。横一列だったり正方形だったり集団で陣を組み、進軍・突撃するのが”お手本”の戦い方とされていた。

だが、銃が先進的になった幕末では、密集陣形で一箇所に兵が集まっていると鉄砲や大砲で攻撃を受けたときに団体で被害を被るデメリットがあるのだ。かといって勝手な単独行動は許されない。

そこで奇兵隊は、散兵戦術を用いて戦場では有利に戦っていた。

散兵戦術は、指揮官の指示が届かなくても一人一人の兵が状況に応じて判断しながら戦い、集団での行動ではなく点々と散らばるように戦闘する戦い方。

そのため、動きやすさを重視して鎧など重い格好はせず、なるべく軽装で防備して機動力を高めた。

機動力としては1分間に180歩を基準とし、間隔をおいて兵が散らばることで戦闘のときに敵の銃砲から受ける損害を最小限にとどめる効果が得られるのだ。

もちろん、広範囲に散らばって動くということは余程の体力が必要になる。そのため、奇兵隊の訓練は厳しかった。たとえば50キロの距離を8時間で完走するのは当たり前。

ほかにも相撲をとったり教養を身につけたり心身を鍛えることを掲げていたという。訓練では戦闘の習得だけでなく、自筆で命令書が書けるように孟子(古来中学の儒学者)などの教育も行ったそうだ。

そして、奇兵隊の強さを表す記録として徳川幕府の資料を見ると、「長州藩と戦った」という記述よりも「奇兵隊と戦った」と書かれていることが多い。

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